第226話

 夕方には広瀬もかなり体調が戻ってきていた。広瀬は仕事が気になるものの、完全に治るまでは桐子の言う通りにパソコンは起動しないことに決めた。


 仕事をしない、となると意外とやることがない。真冬のような装備でリビングのソファに腰かける。テレビに接続されているHDDの内容を確認しながら、録画したが見ていないままだった映画をチェックする。

 桐子は広瀬が心配なのか、普段は自室でしている仕事を、ノートパソコンをダイニングに持ち込んでキーボードを叩いていた。


 ぼんやりとその姿を眺めていたら、玄関が開く音がして伊織が帰ってきた。


「ただいまー。あ、親父起きてて大丈夫なの?」

「おかえり。もう大分楽になってきたよ」

「ちょっと目離すとお仕事しちゃうのよ。土日もしっかり見張っておかなきゃ」


 困ったような視線を投げかけてくる二人に、広瀬は肩をすくめる。


「親父ってホント真面目だよな。俺だったら喜んで寝てるけど」

「学校の勉強と仕事は違うよ。伊織も大人になればわかるさ」


 ふーん、と興味なさそうな返事をしながら、広瀬用に桐子が剥いて置いておいたリンゴをつまむ。

 珍しくすぐに自室へ行かない伊織は、両親を見比べながら改まって口を開いた。


「あのさ……、この前親父には相談したんだけど、俺、ロンドン行かないでこっち残りたいんだ。それ、相談したいんだけど、今じゃないほうがいい?」


 広瀬たちは驚いて思わず顔を見合わせる。こちらから切り出そうと思っていたことだった。


「今日はパパが本調子じゃないから、土日のどちらかにしない?」

「いや、僕は……」

「うん、わかった。俺もちゃんと二人に分かってもらいたいから、親父が治ってからでいいよ」

 

 じゃ、ご飯になったら教えて、と言って、伊織はスポーツバッグを持って二階へ上がって行った。


 リビングに残った広瀬たちは、もう一度顔を合わせ、今度は同時に笑った。


「驚いたね、伊織から切り出すと思わなかったよ」

「私も。あの子、ちゃんと考えているのね」

「……なあ、桐子。君はどう考えてる? 伊織が残りたいって言ったら」

「それは、あの子の考えを尊重してあげたいけど……。でも私もいずれあなたのところに行くんだから、そうしたらあの子、一人暮らしになるわよね。それ、わかった上で残るって言い出したのかが不安だわ。だって、今の伊織に一人暮らしなんて出来るわけないもの」


 ごみの分別も出来ないのに、と、最後のほうは独り言のようにぶつぶつ続ける桐子の言葉に、広瀬は一気に胸の内が軽くなった気がした。


『私もいずれあなたのところに行くんだから』


 もしかしたら、桐子は自分と一緒に行きたくないのでは、と思っていた。桐子から直接言われたわけではなかったが、伊織が残ること、桐子自身も日本に仕事を持っていること、そしてもう一つの理由から、万が一を想像していた。

 しかし今、何のためらいもなく『行く』と言った。

 その一言が、広瀬の不安を雲散霧消させた。


「……あなた?」

「いや……、何でもない。そうだね、伊織に一人暮らしさせるのは不安だな。それも含めて話し合わないとね。……そうだ、一花ちゃんに時々来てもらうのは迷惑かな。二人とも仲良くなってたし、もちろんお義兄さんの許可が必要だけど」

「えっと……、あのね、それも言わなきゃいけないと思ってたんだけど……」


 そして桐子は、何故か嬉しそうに、一花と伊織の関係について知っていることを広瀬に話した。


 すべて聞き終わった広瀬は、顔色を失っていた。ありうべからざる事態に、思考は完全に停止した。


 広瀬の脳裏には、いつの間にか書斎から消えていた封筒が、ぐるぐると回り続けていた。

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