第225話

 松岡は静かに立ち上がり、文哉に深く頭を下げた。


「……やめてください。私は先生に謝っていただきたいわけじゃない」

「しかし……、私は妹さんと」

「桐子自身の責任です。あなたは今は独身だが、あの子には家族がある。既婚者の身の上で仕出かしたのだから、桐子のほうが罪は重い」


 どうぞ座ってください、と促され、松岡は椅子へ腰を下ろした。


「妹との件を取引材料にするのも、兄として少々後ろめたいですが、ここはお互い様といきましょう。それに……、各務氏もそれに気づいたから先生に相談を持ち込んだのでは? 本来は企業法務がご専門の法律事務所に、たかが一千万程度の債権履行契約を相談するなど、どう考えても不自然です」


 少しずつ文哉の仮面がはがれていくのを感じる。正確には文哉の側から、選んで素顔を見せ始めている。松岡はそれをただ見ているしかなかった。


「各務氏、いや、川又氏を候補から外す、というのであれば、私が責任をもってお屋敷を処分します」

「その逆は、どう思われますか?」

「……逆?」


 不審げに首をかしげる松岡への返事をせず、文哉は手を上げ、スタッフにコーヒーの淹れ直しを指示する。

 しばらくして、温かそうな湯気を立ち上らせたカップが差し出された。


「各務氏は、今回の選から漏れてもまた別の方法で近づいてくるでしょう。もしかしたら私が氏の正体に気づいていることもわかっているかもしれない。そうなれば今のようにお行儀のいい振舞を続ける理由がなくなる。更にえげつない手段を取ってくる可能性もある」

「では、あえて、ということですか?」


 松岡の察しに、文哉は満足げに頷く。


「最初は金銭目当てかと思っていました。しかし各務氏と話していると、どうも違うように思える。ですが当然ながら私共に好意的な感情を持っているはずはない。妹の件ではこちらが被害者ですが、そもそもの原因はこちらの両親が各務氏の父親に無実の罪を着せたことです。屋敷を買いとるのも、ほかの目的があると考えるのが妥当ではないでしょうか」


 松岡は、これにも頷いて同意した。


「……我々が知る各務氏は、と、妹さんを襲った犯人ではないのですよね。犯人は今、どうしているのでしょう」

「それは私も……。調べるすべがありませんし。調べるためには妹の件を話さなければならない。この話が出来るほど親しく、人探しが出来るような知り合いもおりませんし」

「確かに、犯人が今どうしているのかは、気になりますね……。調べましょうか」

「それもありがたいのですが……。気が付いていないふりをしたまま、各務氏の計画に乗ってみようかと」

「それは……、しかし、リスクがありませんか? その、私が言うのもなんですが、例えば妹さんや、千堂さんのお嬢さんに危害が、とか」


 文哉が頷き返す。当然、文哉も一度は考えた懸念だった。


「松岡さんが辞退された、という形式ではどうでしょうか。代わりにこの洋館を買われた、ということにして」


 松岡は少し驚いて、再度館内を見回す。確かに、建物の取り壊しが条件になっている三鷹の物件よりも、都心の一等地にあって、特段の条件もないこちらの物件のほうが純粋に買う価値があるかもしれない。

 松岡が三鷹の件に首を突っ込んだのは、文哉との繋がりを作るためだ。それも元をただせば桐子のためだった。

 桐子との関係が知られた今、これ以上ない関係が構築できたと考えてもよい。それなら、三鷹の件から手を引くのは、表向きにも裏向きにも、何の不都合もなかった。


「そうですね、それなら、自動的に残った各務氏が買い取ることになっても不思議じゃない。そして、その後どうするかを注視する、ということでしょうか」

「まずはそうなりますね。あくまで各務氏の出方次第だと思っています。お忙しい松岡さんにはご迷惑をおかけすることにあると思いますが」

「いえ。すべては自分が蒔いた種ですから」


 すっかり力関係が固定してしまった状況に、松岡は小さくなる。その様子を見て文哉はこの日初めて声を立てて笑った。


「今日の話は言えませんが、桐子にも相応の働きをさせますよ。もちろん、本当にあの子を罰することが出来るのは義弟だけですが」


 そして静かに立ち上がり、右手を差し出した。


「では、交渉成立ですね。よろしくお願いいたします」


 松岡は自分より細いその腕を、しっかりと握り返した。

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