第224話
すでに午後の一時を回っていた。普通のサラリーマンなら昼休憩を終えて午後の業務を再開している頃だろう。本来なら文哉も松岡もそうすべきだったが、話の流れからとても今切り上げるような気になれなかった。
「実は入院中に各務氏が何度か見舞いに来てくれましてね。その時に、年内に売却先を決める、と約束しました。もちろん口約束ですが」
「では、もうご決断されている?」
「いえ」
カチャリ、と音を立ててカップをソーサーへ戻すと、少し身を乗り出す。
「氏の正体を共有したうえで、どうすべきかを先生にご相談したかったんです」
「私は……各務さんから見れば競合相手ですよ」
「もちろんわかっています。私も本来はあの屋敷の処分にこの件を関わらせたくなかった。本当は忘れたい名前だった。それが、あちらから手を伸ばしてきた。もっと言えばその前から」
松岡は頷く。各務と文哉の邂逅は、それ以前に先代当主と各務の父親が結んだ契約の履行だった。それは担当したのが自分だったからよく覚えている。
「どうして各務さんは、先生にあの契約についてご相談したんでしょうね」
今度はテーブルから身を引き、脚を組み替えながら松岡に問い返す。
その文哉の目が一瞬鋭く光った。
文哉は、知っているのだと、その瞬間に悟った。
松岡は、白旗を掲げざるを得なかった。
◇◆◇
各務は今日も兄の病室を訪れていた。
誰も近寄らず、静かで薄暗い室内は、考え事に集中するには最適だった。
特にこの件について考えるとき、兄が無言で横たわっている姿を見るたびに、自分の決意を新たにすることが出来る、というのが大きな理由だった。
各務は、裕之は、どんなことをしても千堂家の兄妹に、あの夫婦の子供たちに地獄を味あわせてやりたかった。
自分たちと同様に一家が散り散りになり、本当の名も名乗ることが出来ず、生きていくための糧を得ることすらできずに空腹と不安を抱えて将来が見えない日々を送らせたい。
何より未だに世間から見上げられる存在である千堂家が、他者から蔑まれる姿が見たい。
その一心で生きてきた。本当なら他家に養子に入ることも、改名することも本意ではなかった。しかし川又姓のままでは目的は成し遂げられない。断腸の思いで生まれた時の名を捨てた。
あの兄妹が千堂家に対して良い感情を持っていないことは知っている。しかし文哉は今でも『千堂』を名乗り続け、娘ももうけた。桐子は嫁いで姓が変わったとはいえ、何かにつけて生家を頼りにし、その恩恵にあずかっている。
裕之の目には、二人が本気で千堂を嫌っているようには見えなかった。我儘な子どもが、飽きたおもちゃを放り出し、たまに押し入れから引っ張り出して遊ぶような、そんな気まぐれにしか映らなかった。
(本当に憎むというのがどういうことか、思い知らせてやる)
開けっ放しの窓から、初冬の冷たい風が吹き込んできた。ばさり、と舞うカーテンと、ガタガタと窓ガラスがうるさく鳴る。それでも兄は瞼一つ動かさない。
運が良ければ意識が戻るだろう。そう言われて何十年経つのか。まだ心臓が動いて息をしてくれている、触れば微かに体温を感じられる。
しかしそれも、いつ失われるか分からなかった。その前に必ず、あの二人を兄の前に引きずり出し、頭を下げさせてやりたい。
その光景を想像すると、痛みを伴った歓喜が込み上げてくる。
しかし、ふと、今まで一度も考えたことのなかった別の光景が、裕之の脳裏に広がった。その想念は、今さっきの喜びに満ちた想像を一気に凍らせる。
(すべてが終わったとき、俺はどうすればいいんだろう)
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