第223話

 メインを食べている間は、お互いに無言だった。二人が黙り込んだあたりから静かなヴァイオリン曲が流れてきた。

 食べ終えた頃、松岡のほうから話を再開する。


「妹さんの事件は、その後どうなったんですか?」

「……母が警察の捜査を中断させました。なので立件されないままです」


 松岡は絶句する。中学生の娘が性的被害に遭ったのにわざわざ捜査をやめさせたのか。


「それは……妹さんの心の傷に配慮して、とか」


 微かな希望のようなものを含めて松岡が確認すると、文哉は哀しげに眉尻を下げて首を振った。


「そんな両親ではありません。ただ家の体面だけを優先してもみ消したんです。裏路地で泥だらけになっていた妹をパトカーで連れ帰ったときも『みっともない』としか言わなかなった母です」


 松岡はまるで今自分が言われたかのように顔を歪ませる。それがほかならぬ自分の愛する女が受けた仕打ちだと思うと、すでに墓の下とはいえ、二人の母親に物申したくなるほどだった。


「でも、先ほど、犯人についてご存じだったような……」

「……後から調べて知ったんです。口封じのために金まで渡していました。実の親ながら呆れて物も言えません」


 冷めかけた食後のコーヒーに口をつけながら、松岡は何度も頷いた。


「だから千堂さんは、妹さんのために、ご自身の代で終わらせようと?」

「……そうですね。それが一番大きな理由です」


 一番、というところに松岡は引っ掛かりを感じる。ほかにも何かあるのだろうが、ここで追及しても文哉自身に話すつもりが無ければ、教えてもらえないだろうことは分かり切っていた。


「とても話しづらいことをお聞かせいただいてありがとうございます。無論、一切他言は致しません。ただ、どうしてこのお話を私に?」


 ごくシンプルな、そして松岡の立場にふさわしい質問を投げかける。文哉はまた窓の外へ目を向けた。それは、文哉が感情を他人に悟られたくないときの癖なのだと、ようやく理解した。


「妹を襲った犯人の名は、川又一成と言います。……お分かりですよね」


 今度こそ、松岡は二の句が継げなかった。

 川又。

 それは、以前松岡が調べて文哉へ報告した、各務の生まれた時の姓だったからだ。


◇◆◇


 昼前になり、桐子はもう一度広瀬の様子を見に行くと、寝室にいなかった。まさか、と書斎を覗くと、パジャマの上にカーディガンを羽織った格好でパソコンに向かっていた。

 桐子はあきれたようなため息を、わざと大きくついた。広瀬は驚き、気まずそうに振り返る。


「ごめん……、どうしても仕事が気になって」

「分かるけど……、せめてもう少し暖かい恰好して? そんな薄着じゃ、またひどくなっちゃう。今楽になってるのは薬が効いてるだけよ、きっと」


 そういうと、部屋の暖房をつけ、広瀬を立たせて無理やり着替えさせる。まるで小さな子供の着替えを手伝うように下着まで脱がせようとするので、広瀬は抵抗した。


「ちょ、いいって、自分で着替えるから」

「何恥ずかしがってるの。このまま洗濯しちゃうから、ほら。あ、ついでに汗も拭くから後ろ向いて」


 素っ裸の広瀬に桐子は特別な反応は何も見せない。結婚して二十年近く経つ夫婦なら当然かもしれないが、広瀬はいまだに桐子の裸体はまぶしく見える。その温度差が寂しかった。


 新しい下着と寝間着に着替え終えると、ほのかに温かく肌心地も良かった。上から真冬用のカウチンセーターを被せられ、また口に体温計を突っ込まれた。


「まだ高いわね。……あまりあなたのお仕事に口出しちゃいけないってわかってるけど、あと三十分で切り上げてね。そしたら何か食べて、また寝てね」


 広瀬は、甲斐甲斐しく世話をしてくる桐子を愛し気に見つめ返す。昨日はこの妻の顔を見たくないと思ってしまったためにとんでもない過ちを犯してしまった。二度と正面から見つめあうことなど出来ないと思って、夜帰宅するのが怖かった。

 それが、思いがけない体調不良ですべて吹き飛んだように思えた。もしかしたら体調が戻れば昨日の気まずさもぶり返すかもしれない。それでも、今はまた桐子と二人で屈託なく向き合えていることが嬉しかった。


「……何?」

「いや、なんか君が楽しそうで」

「楽しい? 心配してるのよ。ほら、まだ八度以上あるじゃない」


 早く終わらせてね、と釘を刺し、洗濯物を抱えて出ていく。その後ろ姿を見送りながら、広瀬は、もう二度と川又友梨とは会わないようにしようと心に決めた。

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