第222話

 それでもまだ、文哉は底を見せていない気がする。当然知り合って間もない、親しいとも言えない自分に何もかも話すとは思えない。

 だが松岡としては可能な限りの情報を引き出さなければ判断を踏み誤ると思っていた。


「弁護士さんの助けがあったとしても、それだけの財産を一手に集めるには、大変なご苦労があったでしょう。どうしてそこまでされるんですか?」


 文哉は、松岡の質問を当然として聞いていた。今までいろんな人から言われてきたことだった。

 千堂家に依存しつくしてまともに働いたことすらなく生きてきた親族の中には、文哉の打った手が発端となって破滅していった人物も山ほどいた。

 当主になる前の文哉は、いかにも良家の跡取り息子然とした、大人しく線の細い雅な佇まいを崩さない好青年で、よもや悪評高かった先代・政継以上の辣腕を振るうとは思われていなかった。

 それはしかし、こうすることを前提として文哉が長年かぶり続けてきた仮面でしかなかった。だからこそ、その変貌と専制ぶりに、周囲は驚くばかりだった。


 もう一口ワインを飲んでから、文哉が口を開く。


「妹が一人いましてね。ああ、松岡さんとは病室で一度お会いしていますね。あの節は大変失礼をいたしました」

「ああ、いえ……」


 松岡はここで桐子と既知であることを伝えようか迷ったが、文哉の目が恐ろしく、口にすることが出来ずに黙ってしまった。


「妹だけは、守りたいんです。いえ、もう十分すぎるほど大人ですし、家庭も持っている。今更兄貴がでしゃばる場面でもないのは分かっているんですが……」

「何か、特別なご事情でも?」

「……口の堅い弁護士先生ですからお話ししますが、妹は……中学生の時に性的暴行を受けて、不登校になってしまったことがあるんです」


 驚いた拍子に松岡は持っていたナイフを落としてしまった。尖った金属音が静かな館内に鳴り響く。慌てて拾おうとしたのを制したギャルソンが、すぐに新しいものを持ってきてくれた。


「大丈夫ですか?」

「え、ええ……。すみません、意外なお話で驚いてしまって……」

「意外、とは」

「……いえ、その、良家のお嬢様が、というか……。まあ、こういうことは被害者には責任はないのですが」

「そうですね……。偶然だとしたら、犯人を憎めば済む話でした。ただ妹の場合は少し違っていた。……妹は毎日決まった道をきちんと通って帰ってくるよう言い聞かせられていて、その日もいつもの道順で歩いていた。しかしそれが裏目に出たんだと思います」

「裏目、とは?」

「……妹を襲った犯人は、父が友人の不祥事を隠ぺいするために罪を擦り付けた人物の、息子だったんです」


 文哉は目を中庭に転じる。松岡からはその端正な横顔しか見ることが出来ない。それでも、今聞いた話が鍵になっていることは十二分に伝わってきた。


「犯人は、以前から妹を狙って、その行動を調べていたのでしょう。普段から寄り道をするような子なら、逆に行動が読めない。待ち伏せも難しい。しかし桐子、妹は、何時頃どこの角を曲がってどの道を通るか、すべて母が決めた通りに歩く。狙っている人間にとって、これ以上都合のいい話はない」

「それがショックで、不登校に……?」

「母の監視が厳しく、友人らしい友人もほとんどいませんでした。学校へおいで、と声をかけてくれる同級生もいなかった。しかもストレスからか、声が出なくなっていたんです。失声症、というそうですが。……医師から病気だと説明を受けたにもかかわらず、両親はそれも否定した。妹自身に落ち度があったことを告白したくないから喋れないふりをしているのだ、と決めつけた。妹は、ただ泣くしか出来ずに、一度も登校出来ないまま中学を卒業しました」


 松岡は心の中で、自分がよく知る桐子を十代の少女に置き換えて想像していた。今よりずっと世間知らずで真面目で純粋で、狭い世界しか知らずに生きてきた少女。しかもその世界は冷たく暗く、外側の華やかさとはまるで無縁の牢獄のような世界。

 ただ一人、桐子がすがれた相手は、実兄の文哉だけだったのだろう。


 そして文哉にとっても、それは同じだったとしても少しも不思議はなかった。

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