第219話
『今週から出社されていると伺いましたので。まずは無事の退院、おめでとうございます』
「ありがとうございます。ひと月近くゴロゴロしていたので、中々体力が戻りませんね」
『それでも仕事をしてしまうのですから、我々の世代は因果なものですね』
年齢から言えば文哉と松岡は一回りほど違うはずだが、文哉も笑って頷く。勤労精神という意味では、自分たちは確かに同じ時代の人間だと思う。
「不動産売買の件ですよね。ずるずるとお待たせしてしまって申し訳ない」
『いや、アクシデントがあったのですから当然です。それに急がせるつもりでお電話したわけではないので』
「ちょうどいい、先生、これからお時間ありますか? よろしければお昼をご一緒しながら、お話ししたいことがありまして」
『……わかりました。大丈夫です』
「では、後ほど」
場所と時間だけ共有すると、文哉から電話を切った。
◇◆◇
(……話?)
電話を終えてから、松岡はキツネにつままれたような気分になった。
確かに売買の状況がどうなっているかは気になっていたが、今日は純粋に文哉の退院をねぎらうのが目的だった。
文哉側から持ち出したということは、ある程度の決定を下した、ということだろうか。
自分が知らないところで各務が動いたのか。
松岡の側には、いくつかカードがある。文哉に対してポーカーの札を切るような真似はしたくなかったが、それもまた文哉の出方次第だと思った。
秘書に予定の変更を伝え、約束の時間までは事務仕事を片付ける。約束の店には三十分前にここを出れば十分だろう。
◇◆◇
昼休み、友梨は食欲がなかったので、おにぎり一つをもって近くの公園へ行った。
晩秋の肌寒さに、コートを着てこなかったことを少し後悔する。思わず自分で自分の腕を抱きしめると、昨夜の広瀬の愛撫がよみがえった気がして、慌てて手を離した。
比較的日当たりのよさそうなベンチを見つけて腰を下ろす。
あたりに人がいないことを確認し、スマホを取り出して裕之に電話を掛けた。
『……どうした? 珍しいな』
「お疲れ様。にいさん、今忙しい?」
構わない、という裕之に、昨夜の件を報告した。
『ガードが堅いって言ってたのに、よくそこまで出来たな』
「昨日はちょっと、普段と様子が違ったのよ。直前に誰かと電話してた。もしかしたら奥さんかも」
『……なるほどな』
「ねえ、私って、これで役目は終わり?」
『そりゃ……、もちろん嫌ならやめていい。そもそもお前の本業は別だしな』
「違うの、そうじゃなくて……。もう少し続けてもいいかな、って」
言いながら、友梨は自分でも驚いていた。そして今朝から感じていた不安はこれだったのだ、と気が付いた。
『なあ友梨、俺から頼んでおいてなんだが、やっぱりもうやめろ。そんな好きでもない男と寝なくていいんだ』
「何言ってるの。私から頼んだんじゃない、何か手伝いたいって。寝たのはたまたまっていうか、偶然よ。だってそれくらいしないとただの部下扱いで終わっちゃいそうだったんだもん」
そうだ、自分は兄のために広瀬に近づいた。広瀬を自分へ引き付けておくことで桐子にダメージを与えるのが目的だ。昨日の成果だけでは不十分だ。ここで引き下がれば兄の役に立てない。けれど手を引け、と言われたらそうせざるを得ない。
それが不安だったのだ、と分かって、急に気持ちが楽になった。
「まだ役者の仕事のほうは始まらないわ。きっと年明けだと思う。だから年内はまだ続けられるし、ここでダメ押ししておいたほうが後でこっちが有利になるわ」
『ダメ押し、って……』
「にいさん心配しすぎ。私ももう大人よ、下手を打ったりしないわ」
『友梨、お前、それでいいのか』
「それで、って?」
『好きな男とか、付き合ってるやつはいないのか? いたら辛いだけだろう。やっぱりお前にこんなこと頼むんじゃなかったよ』
「やめて」
友梨は裕之の言葉を強い口調で遮る。急な大声に驚いて、近くにいた雀が数羽飛び去って行った。
「にいさんに関係ない。だから私、このまま続ける」
友梨は裕之の反応を待たず通話を切った。ぎゅっと強く目をつむる。そうしなければ何かがこぼれだして止まらなくなりそうだった。
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