第218話
「……休み?」
痛む頭を押さえながら出社した友梨は、いつもは誰より早く出社している広瀬の姿が無いことを近くの社員に訊ねた。すると今日は体調不良で欠勤だ、と聞かされた。
「ずっと忙しそうにしてたし、ここんとこ急に冷え込んだもんね。金曜日だし、ちょうどいいんじゃな」
教えてくれた社員が離れていき、友梨も自席に座る。昨日の今日だからこそ、広瀬の不在が気になって仕方がない。
確かに連日残業続きだった。そして仕事帰りの広瀬をなんだかんだと理由をつけて食事に連れ出し、更に帰宅時間を遅らせていたのは自分だ。だからどこかでこうなる可能性はあった。
昨日があったから今日倒れた、ということではないのだ。
自分にそう言い聞かせつつも、いつもいるはずの広瀬がいない状況が、友梨自身も不審に思うほど彼女を不安定にさせていた。
◇◆◇
朝食後に家に常備してある解熱剤を飲んだ広瀬は、そのまままた熟睡してしまった。
桐子は時折様子を見に行ったが、寝返りすら打たずに横たわっていて目を覚ます気配はない。しかし朝一より幾分顔色も良くなっているような気がして安心した。
そっと扉を閉めてリビングで仕事を続ける。先週末に文哉が退院し一花も自宅へ帰った。夕方には伊織が学校から帰ってくる。このところ残業続きで帰宅が遅かった広瀬も、今日は家にいる。
体調は心配だが、家族三人だけで家にいる状況は数カ月ぶりだということを、今更のように気が付いた。
『大事なものを蔑ろにして、どうでもいいものを大事にする』
先日の松岡の言葉は、刀で両断されたように桐子の暗部を引き裂いた。今でも言われた時の衝撃が消えない。松岡の苦々し気な顔も。彼は桐子を責めるような言葉を使いながら、明らかに松岡自身も苦しんでいた。
(違う、そうじゃない……)
またも『大事なもの』から思考が離れている自分に呆れる。松岡が言いたいのは彼との関係だけではない。ほかの男、つまり剣とのことを指しているのだろう。稽古場として、今は使っていない屋敷を紹介したのはそれほどまずいことだったのか。それは文哉を騙したことにもなるのか。
悶々と考え続けてもまだ桐子はすべてを理解していなかった。理解しようとしなかった。松岡の言わんとしていることの深意を理解するには、桐子には決定的に欠けているものがあることを、本人が一人で気が付くことは出来るはずもなかった。
◇◆◇
少しずつ慣らし出勤をしていた文哉は、金曜ということもあって今日は可能な限り社内で過ごすことに決めていた。
無理しないでください、と言ってくれる部下の言葉とは対照的に、文哉が決裁すべき書類や業務は山積みになっていた。うんざりしながらも少しずつ片付けていく。
(土地屋敷をもっと処分すれば、仕事も減るのだろうが……)
しかし仕事が減るということは、スタッフもそれに見合って減らさなければならない。彼らにも生活がある以上、文哉の個人的な感情だけで決めるわけにはいかなかった。
そうした中でも、三鷹の屋敷だけはどうにかなりそうな目鼻がついたことが、幾分文哉の心を軽くする。管理人たちの再就職先のめどもついていた。
家を手放し解体したところで自分の罪が消えるわけでも、桐子の傷が癒えるわけでもなければ、現実にある悲劇がなかったことになるわけでもない。
それでも、その存在を目にするたびに胃液のように苦くこみあげる罪悪感を薄める、自分に出来る唯一の手段だと思っていた。
一区切りついたところで休憩がてら、三鷹の屋敷の売却先をどうしようか思案する。
松岡か。
各務か。
決めあぐねていたところに、スタッフが部屋をノックした。
「失礼します。弁護士の松岡先生からお電話です」
頷いて文哉は保留ボタンを押して受話器を取った。
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