第217話
広瀬が帰ったあと、友梨は一人でシャワーを浴びなおし、最後まで広瀬が口をつけなかったビールを開けて一気に半分まで飲み干した。
兄の裕之から頼まれた『広瀬を落とせ』というミッションは果たせた。
と、思う。
既成事実を作れば、それで完了だと思っていた。
それなのに、この敗北感は何だろうか。
広瀬を部屋に招き入れることに成功したときは、これで少しは意趣返しが出来ると心の中でほくそ笑んでいた。
自分たち一家の離散を招き、長兄の人生を台無しにした千堂兄妹への。
テレビ局で会った、周囲から守られていることにも無頓着で、若いツバメを侍らせて涼し気に微笑んでいた千堂桐子の夫を寝取ってやれる、と。
桐子よりも若い自分への自負もあった。
しかし結局、最後まで広瀬は友梨と向き合おうとしなかった。どんなに激しく求めても、強い力で抱き返されても、広瀬はそこにいなかった。
まるで幽霊のように暗い顔で出て行った広瀬の後ろ姿が、飲めば飲むほど鮮明になり、結局朝まで眠ることが出来なかった。
◇◆◇
翌朝、広瀬はベッドから起き上がることが出来なかった。
いつもなら起こさなくても身支度してダイニングに来る広瀬がいつまでも降りてこないので、桐子が様子を見に行くと、額に手を当てたまま横になっていた。慌ててそばへ近づく。
頬に手を当てれば、びっくりするほど熱かった。
「大変……、ね、今日はお仕事休もう?」
先日仕事に口を出したことを反省していた桐子は、出来るだけ慎重に言葉を選ぶ。さすがに広瀬も無理だと分かっていたようで、小さく頷いた。
「会社に連絡は、出来る?」
「だい、じょうぶ……。ごめん、スマホ、取って」
桐子はベッドヘッドで充電中だったスマホを広瀬に手渡す。電話ではなくメールで連絡するらしい。指が震えて文字入力すら怪しいようだった。
「私が代わりに入力しようか?」
おせっかいが過ぎるだろうか。しかしこれも広瀬はおとなしく頷いた。桐子は広瀬が言う通りに入力し、送信を完了すると、スマホの画面をオフにしてもとへ戻す。
「冷却剤と体温計持ってくるから。とりあえず何か飲む?」
「……僕も下に行くよ。何か食べないと……」
「じゃ、一緒に行こう」
もったりと動く広瀬に手を貸しながら部屋を出ると、制服に着替え終えた伊織が驚いて立ち止まった。
「親父、顔色やばいよ、大丈夫? ママ、俺が手伝うから、俺のカバン持ってって」
そういうと伊織は、ひょい、と広瀬の肩を支えて階段を下りる。桐子とは比較にならない力強さに、広瀬は笑った。
「お前、力あるんだな。驚いたよ」
「何言ってんの、もう身長もあんまり変わんないじゃん。つかマジで熱すごいよ。行けるなら病院行ったほうがいいよ」
「いや、病院行くと逆にうつされそうで嫌なんだ……。金曜日だし、ゆっくり休むよ」
リビングのソファに腰を下ろしながら、心配そうに見守る妻と息子に言うと、二人は一様にほっとしたように頷いた。
「そうね、ずっと忙しかったもの、疲れがたまってるのかも」
「親父頑張りすぎ。一花もいたからかっこつけて無理してたんじゃね? 今日はたくさんママに甘えなよ」
ちょっと伊織、と、照れたように慌てる母の手から逃げ、いってきまーす、と言って伊織は家から飛び出して行った。
見送りの言葉も出せない広瀬は、ただ黙って見守る。
桐子は冷蔵庫から冷却剤を出して広瀬に貼り、体温計をくわえさせ、冷えないようにエアコンをつけて上着をかける。
高熱で脱力している広瀬の膝に手をかけて、何なら食べられるか聞いてみた。
「果物は体が冷えちゃうのよね。でも味が濃いものは嫌よね。今家にないものなら買ってくるから、何でも言って?」
広瀬は膝の上の桐子の手のぬくもりに既視感を覚える。昨日、友梨も同じように自分の膝に手を置いてきた。鮮やかなネイルの色が今も目に焼き付いている。
桐子の爪には何も塗られていない。左手の薬指に、広瀬と揃いのプラチナの指輪がはめられているだけだった。
ぼんやりとその指輪を見つめていたら、耐え難い吐き気がこみあげてきて、慌てて手で口を覆う。真横で見ていた桐子も慌てた。
「吐きたい? トイレ行く? ここで吐いちゃってもいいよ?」
「いや……、違う、大丈夫……」
口元から離した手で、そのまま桐子の手を握る。昨日抱いた女の体より、ずっと温かく、存在を実感できた。桐子はまた、普段の広瀬らしからぬ様子に不安が募る。
「伊織のこと、相談出来てなくてごめん」
「……それは私もいけなかったから。またゆっくり話しましょう」
「週末、三人で話そう、ちゃんと」
「そうね。でもその前に、あなたが元気にならないとね」
そして、最初の『何が食べられるか』に話が戻る。広瀬がフレンチトースト、と提案すると、桐子は驚きながら、待ってて、と言ってキッチンへ向かった。
広瀬はソファに身を預けて目を閉じる。冷却剤のおかげか、体調も幾分楽になっていた。
思考の中にすでに友梨の存在は一かけらも残っていないことを、広瀬は気づいていなかった。
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