第216話

 微かにウトウトしかけていた広瀬は、友梨がベッドから抜け出る気配で目を覚ました。


「あ……、起きちゃいました? ごめんなさい」


 ちょうどリビングの明かりをつけたところだったようで、暗い室内から見ると、友梨の裸体が逆光で神々しいほど輝いて見えた。


「何か飲みます? 冷たいお茶でいいですか?」


 呆然としたままの広瀬とは反対に、友梨はまるでオフィスで仕事中に上司に接するのと同じ態度で接する。広瀬は時空感覚が混乱しそうだった。

 ゆっくりと身を起こし、半自動的に衣服を身に着け始める。その広瀬を友梨はもう一度押し倒した。


「ちょっと……、ダメだよ」

「何が?」


 再び広瀬のシャツのボタンをはずし、鎖骨のくぼみに沿って舌を這わせながら友梨は自分の体重で広瀬の自由を奪う。


「駄目だ……、もう帰るよ、ごめん」

「いや」


 友梨の体を押しのけて起き上がろうとするが、口づけながらベッドへ押し返される。


「まだ帰らないで」


 しんと静まり返った室内でさえ聞き取れないほど小さな声で、友梨が訴えた。


「大丈夫、ちゃんと奥さんの元へ返してあげる。だからもう少しだけここにいて」


 汗が引いて冷えかけた肌に友梨の体温が心地よく、広瀬は抗うことが出来なかった。


◇◆◇


 広瀬が帰宅したのは、日付が変わってしばらくした頃だった。

 家の前までタクシーで乗り付ける勇気がなく、ワンブロック手前で下車して歩きながら家の前にたどり着く。


 閉じられたカーテンの隙間から光がこぼれている。リビングの明かりがついているのは、おそらく桐子がまだ起きて待っているのだろう。


 広瀬は自分の家なのに、中へ入ることが出来ず立ち尽くしてしまった。


 桐子以外の女性に触れたのは初めてだった。真面目一本で男女交際を経験しないまま大学生になり、そして最初に恋をしたのが桐子だった。

 周囲からは『少女漫画か』と揶揄われ続けたが、広瀬は少しも変だと思わず、むしろ最愛の女性と早くに出会えて余計な寄り道をせず一直線に幸せになれたことに誇りさえ感じていた。


 それが、今日崩れた。

 愛しているどころか好意があるかどうかもはっきりしない会社の部下と。

 その理由も、最愛であるはずの桐子の顔が見たくない、という、それまでの広瀬の哲学をひっくり返すような事件だった。


 桐子の顔が、見られない。見たくないと思っていた結果が、逆になってしまった。

 しかし自分には家に帰るしか道はない。

 広瀬は大きく息を吸って、玄関ドアに手をかけた。




 ガチャリ。

 玄関が開く重い音に、桐子は飛び上がるようにして廊下へ飛び出す。広瀬の姿を認め、今しがたまで抱えていた不安があっという間に氷解していくのを感じた。


「おかえりなさい」

「ただいま。その……ごめん、遅くなって」

「そんな、いいのよ、お仕事なんだから……。疲れてない? 明日も仕事でしょ」

「ああ。シャワーだけ浴びて寝るよ。君は先に休んでていいから」

「分かったわ。着替え出しておくわね」


 そう言って、桐子は広瀬に背を向けて廊下の奥へ消えて行った。


 広瀬は音を立てないように自室へ向かう。普段なら寝室へ入るのに、今は書斎に入って扉を閉めた。そこでやっと、家に入る前に吸った息を全部吐き出した。


 額に手を当てると冷や汗をびっしょりかいていた。桐子は気が付いただろうか。会話を思い返すがお互いに普段通りだったように思う。きっと大丈夫だっただろう、と、無理やり自分を納得させる。


 もうこんな思いはこりごりだ、と項垂れつつも、自分の手にはまだ友梨の匂いが残ってることに気づいた。

 明日からもまた一緒に働かなければいけない。果たして自分は彼女を振り切れるだろうか、と考えると、少しも自信を持つことが出来なかった。

 

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