第215話
桐子が松岡と話をしている頃、広瀬は友梨と肩を並べてオフィスから出た。
「今日は何にします? そうだ、いつもご馳走してもらってるから、私が奢りますよ。そんなに高級なお店には行けませんけど」
「そんなことさせられないよ。大体いつも高い店なんて行ってないし」
「だってマネージャー、領収書もらってませんよね。それって経費計上してないってことでしょ? こんなに毎日なのに」
「君と食べたご飯まで、経費になんて出来ないよ」
広瀬は笑って友梨の言い分に反論する。普段から社内の人間との飲食はすべて自腹を切ることにしている。それを負担だと思うような相手とは飲みに行かない。それが広瀬なりの人付き合いのルールだった。
そして、こんな気分なのに笑えている自分にも苦笑する。今日はいつにも増して家に帰る気がしなかった。せめて食事をする小一時間くらいは、帰宅を延ばしたい。そう思いながら何かを振り切るように辺りを見回し、店を探し始める。
「もう遅い時間だから、まだ開いてそうなのは居酒屋くらいかな」
「だったら……」
友梨は思い切って何かを打ち明けるような顔で、広瀬を振り返る。
「……うちに、来ます?」
広瀬は驚いて固まる。友梨はその手を取って、近くを通りがかったタクシーを呼び止める。
二人が乗ったタクシーは、桐子と松岡が座るベンチの前を通過したが、無論どちらも気が付くことはなかった。
◇◆◇
桐子が自宅に帰り着いたのは、二十一時を過ぎていた。丁度風呂から上がったところだったらしい伊織が、キッチンで麦茶を注いでいた。
「おかえり。あれ、ママ、親父は一緒じゃなかったの?」
「あ、うん。ちょっと途中で帰ってきちゃって……」
そういえば残業中の広瀬を迎えに行ったのだった、と、そこでやっと思い出した。
伊織は普段の母らしからぬ様子が心配になって、桐子の分も麦茶を注いで差し出した。
「ママ、なんかあった?」
「……え?」
「いつものママらしくない感じがする。親父ならいつも遅いじゃん。心配しなくてもちゃんと帰ってくるよ」
ほら、とコップを再度すすめる。桐子は頷いて受け取りながら、伊織の言葉を反芻していた。
『心配しなくてもちゃんと帰ってくる』
桐子が心配していたのは、帰ってくるかどうか、ではない。広瀬の健康状態だった。過労で抑うつ状態になっているのではないか、本人が気づかないまま体調を崩しているのでは、だから顔色が良くなかったり、先日のような広瀬らしくない言動をしたのではないだろうか、と疑っていた。
そして広瀬がそうした無理をするのも、すべては自分たち家族のためだということも、桐子は疑いもしていなかった。
広瀬はそういう人なのだ、と。
心配する点は異なれど、伊織も同じように思って言った言葉だろう。
しかし奇しくも伊織の言葉が、桐子の思い込みを揺らがせている。
(もし、体調不良とかじゃなくて、様子がおかしいのだとしたら?)
桐子は突然、今自分がいる家も、目の前に座る伊織も、この後帰ってくるだろう広瀬も、すべてがガラスの向こうにある自分が触れることの出来ない遠い存在のように感じ、座ったまま眩暈で動けなくなった。
◇◆◇
「どうぞ。狭くてごめんなさい」
「いや、その……お邪魔します」
半ば無理やり連れてこられた友梨のマンションに入る。それほど広くはないが、中は小ぎれいに片付いていて、女性らしい色合いが目に優しかった。
「簡単なものでいいですか? あ、もしビールでよければ冷えてますから。飲みます?」
「いや、お酒はいいよ。さすがにそれはまずいっていうか……」
「何が、ですか?」
手早く部屋着に着替えてきた友梨は、見慣れているスーツ姿とは雰囲気ががらりと変わっていて広瀬は戸惑う。突然自分が独身の女性の自宅に夜に上がり込んでいるのだ、という事実に慄き始めた。
行儀よくカーペットの上に正座している広瀬の膝に、友梨の手が乗る。
「お酒飲んだら、何がまずいの?」
友梨は自分の手を広瀬の頬に添え、ゆっくりと自分のほうへ引き寄せた。
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