第214話

 通りでタクシーに乗り、広瀬の勤務先がある都心のオフィス街へ向かう。自分は何をしているんだろうと思いながら、もし広瀬が自分の不調に気づかないで無理をし続けたら、と考えると、いてもたってもいられなくなった。


 近くまで来て、タクシーが停車しやすそうな場所で下ろしてもらう。すでに二十時も半ばを回っていて、帰宅途中やこれから飲みへ行くのだろう集団とすれ違った。

 目的地へ向かって人波の中を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。


「何してんだ、こんなところで」


 驚いて振り向けば、松岡だった。


◇◆◇


「……広瀬が?」


 近くにあったベンチに腰掛けて、なぜここにいるのかを説明させられた。出来るだけ早く切り上げたくてかなり端折った話し方になったが、それでも松岡は正しく状況を理解したらしい。


「心配しすぎだろ。あいつの立場なら色々考えることもあるだろうし、部下も多いなら悩みだってある。部外者のお前に話せることでもなければ、赴任するしないにお前が口出すのはやり過ぎだ」

「それは……分かってるけど」

「急にどうした。お前らしくないな」

「……なに、それ」

「お前なら、広瀬の帰りが遅かろうが、悩んでるふうに見えようが、頑張ってねー、って涼しそうに流しそうなもんだがな」


 桐子は松岡の言い草に不愉快になりながらも、その内容には反論する余地がないので黙ってそっぽを向いた。


「しかもこんな時間に息子ほっぽって亭主の勤め先まで押し掛けるとか、何考えてるんだ。その電話の様子から見て、余計怒らせるだけだろ」


 桐子を諭しつつ、松岡は家で一人だろう伊織も心配になる。今は伊織も不安定だ。母と若い俳優の関係を疑って、その明確な答えも得ていない。もしかしたら聡い伊織は、松岡の不透明な答えから正解を導き出した可能性だってある。

 桐子を不憫にも愛しくも思う反面、母親としては配慮が足らないように思えてしまう。


「そういえば、この前一緒に飯食った俳優はどうしてんだ」

「なんであなたが気にするのよ……。自分の劇団に出入りを禁じられて、別のところで稽古してるわ」

「出禁? なんでまた」

「元々人気のある子だったけど、テレビでドラマのことが発表されてから楽屋待ちするファンが増えちゃったんだって。で、近所迷惑だからしばらく近づくなって言われたって」


 なるほど、と、松岡は剣の容貌を思い浮かべる。思いつめたような、にらみ返してくるような剣呑な顔しか見たことがないが、舞台やファンの前では笑顔を向けるのだろうし、若い女性から見れば十分魅力的なのだろう、と納得する。


「じゃ、家にこもってんのか?」

「ううん、相談されたから、うちで空いてる屋敷を紹介したわ。兄さんの許可取って」


 何でもないことのように話す桐子に、一瞬松岡は判断が遅れた。そして数秒ののち、大声で怒鳴り返そうとしたのを寸でのところで抑え込んだ。そしてそのまま頭を抱えてうずくまった。


「ちょっと……あなたまでどうしたの?」


 両手で顔を覆って下を向き、震えているようにも見える松岡に桐子は狼狽える。さっきまで普通に会話していたのに、と。

 だが桐子の見当違いな懸念を、押し殺された松岡の怒気が跳ね返した。


「お前がそこまで馬鹿だったとは思わなかった……。広瀬や坊主の気持ちも考えろ。いや、兄貴のことまで騙して、それでもあいつが大事だっていうなら今すぐ二人でどっか消えちまえ」


 桐子は松岡の言っていることのほとんどが理解できなかった。


「俺も反省してるよ。これまでずっと軽はずみ過ぎた。だからお前が責められるときは俺も一緒に責められてやる。ただ、今からでもいいから家族を大事にしろ。お前は大事なものを蔑ろにしてどうでもいいものを優先する。その結果が、今お前が心配している広瀬の状態なんじゃないのか?」


 理解が追い付かず呆然としたままの桐子を残し、松岡は言い終わるとそのまま立ち去った。

 桐子は広瀬の様子を確認する、という当初の目的を忘れ、しばらくその場から動くことが出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る