第208話
翌日、朝食を済ませた桐子と一花は文哉を病院へ迎えに行くために出かける準備をしていた。
一カ月近く同居していた一花は、それ相応の私物がある。当然一度に全部運び出すことは出来ないし、今日は文哉の退院手続きが優先だった。
まずは最低限必要なものだけを持ち帰る、ということで、旅行バッグに荷物を入れていると、開けっ放しの扉の間から伊織が顔を出した。
「大変そうだな。手伝おうか?」
一花は急に入ってきた伊織に驚いて、慌てて手に持っていた下着類を隠す。
「い、いいよいいよ。大丈夫。今日だけじゃ終わらないし、またちょいちょいくるかも」
えへへ、と頭をかく一花に、伊織は小さな紙袋をポイと投げてよこした。一花は驚きつつ両手でキャッチする。
「……何?」
「うちの鍵」
「え……?」
「ママに聞いたら、いいよ、って言ったから、さ。好きな時に来いよ。誰もいなかったらそれで開けて入ってくればいいし」
さらに驚いて袋を開けると、手のひらの半分くらいのサイズのキーホルダーがつけられた鍵が出てきた。
「うさぎだぁ、かわいいー」
二頭身の頭が大きなウサギのぬいぐるみはフワフワしていて感触が優しかった。
「おばちゃんが買ってくれたの?」
「……ちげーよ」
「え?! まさか伊織くんが? これ選んで買ってきたの?!」
「悪かったな! お前に似てたからそれにしたんだよ! 超恥ずかしかったんだぞ!」
真っ赤になって怒るところを見ると本当らしい。一花はキャッキャと笑いながら、両手で大事そうに鍵ごと抱きしめた。
「ありがとう! 大事にするね」
「大事にするとかじゃなくてさ」
少し顔の赤みが引いてきた伊織は、一花の間近に腰を下ろす。
「何かあればすぐ頼れよ。前も言ったけど俺ロンドン行くのやめたし。ママもお前のこと心配してた」
「……おばちゃんが?」
一花は納得と驚きの両方を感じつつ首をかしげる。いつも優しく気を配ってくれる叔母だが、そうした態度とは裏腹に近寄りがたさも常に感じていた。だから自分が知らないところで心配してくれている、という事実に驚き、しかしやはり嬉しかった。
「ありがと。……うん、何かあったら連絡する」
「なんもなくても……連絡しろよ」
伊織の言葉に、一花は、え? と聞き返そうとしたところで、その声は伊織の唇で塞がれた。
◇◆◇
「じゃあ、行ってくるわね。パパと伊織のお昼ごはんは冷蔵庫に入ってるから、チンして食べてね。パパ、疲れてるみたいだから起こさないようにね。夕方には帰ってくるけど何かあれば電話してね。それから」
「わーかったわかった。大丈夫だから。ほら、タクシー待ってるよ」
まだ何かあったはず、と考えている間に、桐子は伊織にタクシーへと押し込まれた。自分の後から隣へ乗り込む一花は、なぜかずっとおとなしい。先日から続いて元気がないままなのか、と心配になった。
タクシーが走り出したタイミングで、そっと声をかける。
「一花ちゃん、大丈夫?」
「……え? えっ?! うん、だ、大丈夫だよ? え? どうして?」
「なんか元気がないように見えるから……。そうだ、伊織から受け取った?」
「うん、お家の鍵だよね。ありがとう、めっちゃ安心出来た」
お礼を言いながら、つい先刻の事件を思い出し、反射的に一花の顔が赤らむ。その様子を見た桐子は、当たらずも遠からず、といった自分の想定を肯定した。
「それならよかった。何かあればいつでも頼ってね。とはいっても、年明けからは私だけになっちゃうけど」
「……あれ? 伊織くんは行くのやめた、って聞いたけど」
桐子の言葉に、一花は疑問を返す。しかし同じように桐子も驚いた顔をした。
「行くのやめた、って、伊織が?」
「え?」
「え?」
二人は同時に首をひねった。
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