第209話

 退院手続きを終え、看護師たちに見送られて病院を出る。文哉宅にタクシーが到着したのはちょうど昼頃だった。


「昼は寿司でも取るか。今から作るのも大変だろう」


 文哉はさっそく自分のスマホを操作し始めたが、それを桐子が制した。


「夕ご飯もあるし、買い物行って何か作るわ。……一花ちゃん、一緒に来てくれる?」


 桐子は一花に声をかけながら、文哉に気づかれないように小さく頷く。そのサインを正しくキャッチしたらしい一花が同意した。


「うん、じゃあ一緒に行くね。パパ、お昼と夕ご飯、何食べたい?」

「俺は何でもいいよ」

「またそれー。一番困るんだってば」


 ぷう、と膨れる一花に、文哉は笑って謝る。


「じゃあそうだな、鍋がいいかな。病院じゃ食べられなかったからな」

「簡単で詰まんない……。でもいいや、じゃあ夜はお鍋ね」

「じゃ、行ってきます」


◇◆◇


 スーパーまでは徒歩で十分弱だ。天気も良く日が差していて、晩秋だが暖かかった。

 誘った桐子のほうから口を開く。


「さっきタクシーで言ってた伊織の件なんだけど……」

「うん。そうだと思った。伊織くん、まだちゃんと相談してなかったんだね」


 伊織は『行かない』と断言していたが、桐子の反応から香坂家としての決定事項ではないらしいと分かると、一花のテンションは目に見えて下がっていった。


「行きたくない、って言ってたの?」

「ていうか、こっちに残ってやることがあるから、って、おじちゃんに相談したって言ってた」


 桐子は、そう、と返事をしながら、二重に胸の内が冷えていくのを感じた。

 伊織が自分に相談してくれなかったこと、それを夫が自分には話さなかったこと。

 そして息子の意向を一花から聞くことになった現状に対して。


「こっちに残るって、進学のことかしら……」


 独り言のような桐子のつぶやきに、一花は何も言えず口ごもる。一花と伊織が千堂家について、文哉について、桐子について調べていることは話せない。


「……パ、パパのことがあっておばちゃんが忙しそうだったら、それで伊織くん、話せなかったのかもしれない……」


 苦し紛れの見解を伝えると、桐子の顔色が多少明るくなってほっとした。


「そうかもしれないわね。……ごめんね、一花ちゃんを巻き込む感じになっちゃって」

「私は……、大丈夫、気にしないで」


 きゅっと口元を引き締めながら、一花は再び伊織に心を馳せる。

 両親の同意を得ての『残る』発言ではなかったのはショックだが、伊織自身の意思であることに変わりはない。

 それに、昨日までのあやふやな関係ではないのだから、と、今なら自分に自信を持つことが出来た。


「でもよかったわ、二人が仲良くなって。夏の旅行の時はケンカまでしてたのに」

「あっ、あの時は……。でも、伊織くん優しいし、頼りになるし、その、かっこいいから……」


 何を思い浮かべているのか、真っ赤になって伊織への誉め言葉を連発する一花が、桐子は同性として好ましく、叔母としては成長を見届けられているようで愛おしい。さすがに男親の文哉は、恋愛方面の成長にはまだ苦い顔をするだろう。


「一花ちゃん、伊織のこと、好き?」


 気が付けば、そう訊ねていた。一花は顔をがばっと上げて、口をパクパクさせながら固まっていた。

 一目瞭然な反応に、桐子は思わず声を立てて笑った。


「おおお、おばちゃん、その、私、あの……」

「いいのいいの、反対とかそういうんじゃないの。もし伊織には知られたくないなら言わないから安心して」


 そしてパタパタと振っている一花の手を取って、つないで歩きだした。


「じゃあ、伊織がこっちに残ったほうがいいわよね、一花ちゃんとしては」

「それは……、うん」

「そっか。うん、わかった」

「で、でも、私のことは気にしなくていいっていうか、決めるのはおばちゃん達だから、だから……」

「ありがとう。ちゃんと話し合うわ、三人で。無理やり連れて行くようなことはしないから」

「おばちゃん、怒らないの?」

「怒る? どうして?」

「だって、私と伊織くん、従兄妹だし。そういうのってあんまりよくないんじゃないかな、って……」


 再びしょんぼりと下を向いてしまった一花の手を、桐子は少し力を込めて握りなおす。


「従兄妹同士なんて、よく聞くわ。法律でも禁じられていないじゃない」


 ね? と微笑みかけると、一花はまたにこりと笑った。

 その笑顔を守ってやりたいと思う反面、どうして自分は、と考えることを止められなかった。

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