第207話
翌日、桐子は文哉宅の掃除に向かった。
一花を預かる日に一通り片付けてはいたものの、数週間誰も出入りしていなかった家の中は、埃っぽく空気が淀んでいるように感じた。
窓という窓を全て開けて、冷蔵庫の中の整理をし、水回りを掃除して、すべての部屋に掃除機をかける。洗濯物はなかったが、念のために二人のベッドのシーツと枕カバーを取り換えて洗濯した。
やり始めたら止まらなくなって、数時間だけでも、と、布団を干す。二階から見下ろすと庭も多少荒れていたので、布団干しの間に枯れ葉の片づけと雑草取りも済ませると、さすがに一息つきたくなって屋内へ戻った。
持参したポットから茶を注ぐ。昼間でも鳥の囀りしか聞こえない、静かな住宅街だった。
リビングに置かれている大きめのオーディオとその横にずらりと並ぶ洋楽CDを見て、桐子は笑みがこぼれる。昔から文哉はロックが好きで、その嗜好も母とぶつかるネタになっていた。
目を転じて部屋をぐるりと見まわす。そこかしこに文哉の気配が色づいているせいか、心から寛げる。
最近は毎日のように文哉に会いに行っていた。妻も亡く娘も学校があるのだから、不自由させないために自分が行く必要がある、という大義名分のおかげだった。予定していたロンドン同行は叶わなかったが、それも広瀬は承知してくれた。
文哉の回復自体は嬉しいが、今の自分の役目が終わることが寂しかった。
唐突に、先日の一花の様子を思い出す。父親が無事退院することが決まったというのに、今一つ浮かない顔をしていた。
その一花と今の自分の心が重なった気がした。
(もしかして、一花ちゃん……)
◇◆◇
金曜の夜も、やはり広瀬は遅い時間帯の帰宅だった。
「おかえりなさい」
「ああ……。ごめん、起きて待っててくれたんだね」
「大丈夫? ずっと忙しいみたいね」
桐子に労われ、広瀬は少しだけ胸の内に痛みを感じる。コートを脱ぐと桐子がそれを受け取った。
「週末だから、少し無理したかな」
「そうなの? でも最近ずっと遅いし……。食事は外食?」
「……ああ。大丈夫、ちゃんと食べてるよ」
「だったらいいけど」
広瀬は疲労をひた隠して桐子からの質問を躱す。妻が夫の帰宅の遅さを気にするなんてごく普通のことなのに、なぜか今の広瀬はそれが居心地が悪くてたまらなかった。
「風呂、入りたいな」
「うん、わかった。あのね、疲れてるのに悪いんだけど、明日ね」
「……何?」
「兄さんが退院するの。午前中から一花ちゃんと一緒に行ってくるわね」
「そうか。お義兄さんによろしく伝えておいて」
「ありがとう。……じゃ、お風呂の準備してくるわね」
そこで会話は止まった。桐子は静かに寝室から出ていった。
広瀬はワイシャツを脱ごうとしたが、力が抜けてベッドの上に腰を落とし、両手で顔を覆った。
(何をやっているんだ、僕は……)
自分にやましいところなど何もない。妻に対して疑義があるわけでもない。確かに一度は約束した出張同行が反故になったときはショックだったが、それも直前で実兄が交通事故に遭ったのだから仕方がない。桐子が赴任当初から一緒に渡英しないのも、仕事のスケジュール上致し方のないことだ。明日の義兄の退院に姪と一緒に付き添うのも当然だった。一花はまだ高校生で、義兄には妻が亡いのだ。近くに住む実妹が世話をすることのどこがおかしい。
頭ではわかっていても、何かの拍子に吹き出す雑草の芽のような小さな不快感が止まらない。その都度草を摘むように自分の中で否定しているものの、完全に消えてくれることはない。時間が経てばまた別の場所で芽を出す草のように。
桐子の言動は、以前と少しも変わらない。ずっと同じだ。だから、もし異変があるとすれば自分側なのだ。
そして広瀬は、その異変には二つだけ心当たりがあった。
未だに行方が分からない封筒の存在と、川又友梨だった。
本当にこのまま渡英していいのだろうか。自分だけ先に行って、桐子は約束通り後から来てくれるのだろうか。突然『日本に残りたい』と言い出した伊織の件も、まだ夫婦で話し合えていないのに。
明日こそその話をしなければ、と思っていたが、義兄の退院に助けられた。と安堵している自分に自分でため息が止まらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます