第206話

 剣と別れてから、桐子は午前中にも行った文哉の病室へ再度向かう。一日で二度やってきた桐子に、文哉も驚いた顔をした。


「どうした、忘れ物か?」

「違うの、ちょっと兄さんに相談があって……」


 改まったように向き合う桐子に、文哉はうなずいた。




「なるほど、自主稽古の場所として、か」

「繁華街に近いと人目を引くし、かといってあまり都心から離れると不便だし。あの三鷹の屋敷なら世話人さんもいるし。……もちろん、自主稽古以外の目的には使わないように約束させるから」

「お前の知人なら、そこは心配してないけどな。だが、年内には売却先を決定する予定だ。そうなると所有権は俺たちから売却先へ移る。その時は使えなくなるぞ。そもそも解体が売却の条件だしな」

「それまでには植田さんにちゃんとした稽古場見つけてもらうわ。そんなに長く使うつもりはないの。ただ、何もしないでいることで精神的にまいっちゃったら、って、それが心配で」


 文哉へ説明しながらも、その当人を思い浮かべているのだろうか、思案顔になる桐子に文哉は笑った。


「珍しいな、お前がそんな風に考えるのは」

「……そう?」

「広瀬くん達以外のことで、お前が率先して誰かの世話を焼いてるところ、初めて見たよ」

「そんなこと……ないわよ。もしこれが環だったら」

「環さんの世話をお前が? 逆だろ、いつも。先回りして手を引いてくれるのは彼女のほうじゃないか」


 文哉の指摘に桐子はぐっと言葉を詰まらせる。そして文哉が意外だと感じるほどに、自分が剣に肩入れしていたのか、と気づいて背筋が冷たくなった。


「いいことだと思うぞ。お前にはもっと、そういう相手が必要だ」


 文哉の言葉に桐子はさらに身を固くする。剣が妹にとっての何だったのか、を知れば、こんなことは言わないだろう。


「そういうことじゃないわ。もちろん、無理に、とは言わないから」

「いや、構わない。俺から向こうには連絡しておくよ。好きに使うといい」

「ありがとう。ごめんね、まだ入院中なのに」

「明後日には退院だ。もう怪我人じゃないよ。一花はどうしてる?」


 ふと思いついたように娘の状況を問うてみる。迷惑をかけるような子でもなく、多少のことで苦情を申し立てる妹夫婦でもないことは分かっているが、それだけではなく元気かどうかも心配だった。

 元気にしてるわよ、という返事を当然のように期待していたが、桐子は微かに表情を曇らせる。


「ずっと元気そうだったし、家のことも手伝ってくれて本当に助かってたの。でもここ数日ちょっと元気がなくて……。学校で何かあった、とかじゃないといいんだけど」


 昨日も文哉の退院日について告げたところ、想像したような反応ではなかった。今朝はまたいつも通りに戻っていたように見えたが、一花の口から文哉について問われることはなかった。


「そうか……。俺のせいで苦労かけたからな、疲れが出たかな」

「兄さんたちが戻る前に掃除しておくわ。鍵貸して」

「そこまでしなくても……」

「だって、三週間も誰もいなかったのよ。そのままじゃ戻っていきなり一花ちゃんが大掃除しなきゃいけなくなっちゃう」

「分かった。悪いな、面倒かけて」


 そして自宅のカギを桐子へ預けた。受け取りながら桐子は明日の作業工程を頭の中で考え始めていた。


「じゃあ、明日は掃除してから来るね」

「もういいよ。掃除の後じゃ、お前も疲れてるだろ?」

「いいの。私が兄さんの顔を見たいだけだから」


 桐子はそれだけ言うと、またね、と言って病室から出て行った。

 文哉の胸の内では今しがたの桐子の言葉が反響し続けていた。それを振り切るために普段はつけないテレビのリモコンに手を伸ばした。

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