第205話

 劇団への出入りを禁じられた剣は、植田から代替の稽古場について連絡が来るのを自宅で待っていた。

 しかし家にいても考えたくないことばかり考えてしまう。ついスマホに手が伸び、桐子の連絡先を表示してまた閉じる、という意味のない行動を繰り返してしまっていた。


 最近は外へ出ると人から声を掛けられることも増えてきた。人前に立つ仕事をしているのだからある程度は経験があったが、制作発表の放送以降はそれ以前とは比較にならなかった。


 かといって、何もしないのもどんどん時間を無駄に浪費しているだけに思えて落ち着かない。こんな時、植田と桐子以外に本音で相談できる相手がいない自分が、この上なく貧しく思えてより一層落ち込んだ。


 植田には『連絡するから待っていろ』と言われている。ならば。


(仕事の悩みなら……いいよな)


 剣は、一か八かの勝負に出る覚悟で、桐子の番号を表示した。


◇◆◇


「いらっしゃい」

「こんにちは、マスター」


 桐子は急な剣からの電話に、外で会おうと答えて、待ち合わせ場所に『ミント』を指定した。

 あえて植田も環も馴染みの喫茶店を選んだことで、自分にとっても剣にとってもけん制になると考えてのことだった。


 訳知りに頷くマスターの目線の先には、緊張しきって固まっている剣が座っていた。その様子に桐子は思わず吹き出した。


「……なんで笑うんだよ」

「だって、就職活動の面接に来た大学生みたい」

「しょうがないじゃん、だって、ずっと連絡無視されてきたし……」


 平日の昼過ぎ、大学のキャンパスからは多少距離があるせいか、二人以外に客はいない。それでも剣は可能な限り声を潜めた。


「ごめんね。でも、慣れてね」


 さらりと、しかし多少の心苦しさも織り交ぜたような桐子の声音に、『いつまで?』と聞きそうになったのを慌てて引っ込める。

 きっと桐子は答えないだろう。もし答えが返ってきたとしても、それは十中八九自分が望むものではない。それは、松岡の話しぶりからも想定出来た。

 とはいえ、素直に頷くことも、まだ出来そうになかった。


「努力する……」


 桐子の顔を見ずに、それだけ絞り出すようにつぶやくと、視界の外で桐子がまた笑う気配がした。


 マスターが二人分のコーヒーを運んできた。それを待っていたかのように桐子が話し始める。


「電話で言ってた相談って、何?」

「うん。今日稽古場行ったんだけど、最近どんどん楽屋口に人が集まるようになってて。団長から近所迷惑だからしばらく来るなって言われちゃって」


 桐子は何度も頷く。当然予想される事態だった。わかっていなかったのはおそらく剣本人だけだろう。


「やることなくなっちゃった、ってこと?」

「それもあるけど、家で何もしないのもストレスで。かといって外に出ると声かけられることが増えたから、フラフラしてるわけにもいかないし。どうしたらいいかな、って」

「なるほどね……。植田さんはなんて?」

「代わりの稽古場見つかったら連絡する、って」


 桐子は腕を組んで考える。顔の広い植田のことだから伝手はあるだろうが、今の剣が安心して自主トレに励める場所がそう簡単に見つかるかどうか。

 そして待っている間、剣はずっと自分を持て余すだろう。年明けからはドラマの撮影が始まる。その前にメンタルを崩すようなことは避けたかった。


「それ、私からも植田さんに相談してみるわ。出来るだけ早く……そうね、週明けまでには見つけるようにするから、それまで待てる?」

「……桐子さん、が?」

「植田さんだって公演間近で忙しいだろうし、探してくれるとはいってもすぐとはいかないかもしれない。君も無限に待てるわけじゃないでしょ?」


 剣は二、三度瞬いて、慌てて何度も頷く。


「助かる、俺、一人で部屋にいるのほんとにしんどくて……」

「明日にでも、って言ってあげたいけど、週末ちょっと忙しいから。その間は家で出来ることやりなさい」


 そう言うと、持ってきた紙袋をドン! とテーブルの上に置いた。上から覗き込むと本が入っているようだった。


「シェイクスピア。脚本とDVD、ずっと渡そうと思ってたの。『ハムレット』から優先して読んでね。時間があればほかの悲劇も。きっと今までちゃんと読んだことなかったでしょ」

「貸してくれるの?」

「あげる。私はもう全部頭に入ってるし」


 全部?! と、驚いて中を確認する。やはり大学時代から何十年も携わっている人は違うのだ、と、自分との差を再認識した。


「俺も全部覚える」

「……無理しないでいいわよ、まずはハムレットを」

「覚える。俺、バカだけど読むのは早いから」

「早く読むだけじゃダメだってば。ちゃんとハムレットを理解して。君の役はそれがベースになってるんだから」

「俺の役……」

「そうよ。私が君のために書いた。今の剣くんならリアルに演じられる。今の君だから出来る役よ」


 剣は紙袋を抱えながら、桐子の言葉を胸に刻み付ける。


(桐子さんが、俺のために書いた……)


 剣は桐子に強く頷き返す。自分がやるべきことが、今やっとわかった気がした。

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