第204話

 文哉の退院が、今週末に決定した。

 それを伝えられた桐子は、学校から帰ってきた一花に伝える。


「良かったわね。一花ちゃんもお家に戻れるわね」


 桐子は、一花に不自由や気遣いをさせないよう出来る限りの配慮はしたつもりだったが、自宅と全く同じようにリラックスできているとは思わなかった。他人への配慮を忘れない優しい子なのだ。

 だから自分の家、自分の部屋へ戻れることは、一花にとって嬉しいことに違いないと思っていた。何より事故で入院していた父が回復したのだから。


 しかし一花の反応は、桐子が予想したものとは少し違っていた。口元は頑張って笑っていたが、眉尻を下げた顔は微妙に悲し気に見えた。


「おばちゃんありがとう。ずっとパパのお世話してくれて。ほんとは私がやらなきゃいけないのに」


 それだけ言うと、着替えるね、と言って二階へ上がってしまった。

 桐子は退院当日どうするか、という相談をするつもりだったが、後回しにすることにした。


◇◆◇


 部屋に入った一花は、制服のままペタリと床に座り込んだ。


 父が退院する。

 もちろん、嬉しい。ほっとした。

 でも、もう今と同じように伊織と一緒にはいられない。

 そして遠からず、伊織はロンドンへ行ってしまう。いつ帰ってくるか定かではない。


 かといって、家に帰りたくない、なんて言えない。

 伊織ともっと一緒に、そばにいたい、なんてもっと言えない。

 もうすぐ渡英する伊織を、もう一度自分の家に呼ぶことも出来ない。

 何より自分と伊織には、親戚という関係しかないのだ。


 悲しい、というよりももっと根深く、寂しい、というよりも重苦しい何かが、一花の全身を覆いつくすようだった。




 自分の気持ちを持て余した一花が部屋でぼんやりしていると、階下で声が聞こえた。時間から見て伊織が帰ってきたのだ、と分かった途端、急激に頭が回転し始める。

 最近はいつもこうだ。伊織がいると落ち着かない。でも近くにいるのに別の場所にいるとそれも落ち着かない。

 かといっていつも一緒にいる、なんて、考えただけで血が沸騰しそうだった。そもそも非現実的な想像だということもわかっていた。


 だが、伊織とあと数日で離ればなれになることが決定した今、そんなことも言っていられなかった。

 部屋の中で立ち上がって外の様子を窺ったり、もう一度ベッドに腰掛けたりとそわそわしながら自分の気持ちが落ち着くのをまっていたところで、外からドアがノックされて飛び上がった。


「ひぇ、はあい!」

「大丈夫かよ……、俺、伊織。帰ってんだな、入っていいか?」

「う、うん」


 ここ数日ずっと自分の思考を占めている張本人と直接向き合うのは、緊張する以上に現実感がない。扉を開けるといつも通りの制服姿の伊織が立っていたが、一花にはとても儚くて遠くて、手が届かない何かのように見えた。


(今は目の前にいるけど、もうすぐいなくなっちゃうんだよね)


 分かっていたと思っていた事実が、この時ようやく一花の腹の底にストンと落ちてきた。それと同時に、噴き出す涙が止まらなくなった。


「ちょ、おい、なんだよ、どうした?」

「な、何でもない、何でもないの……」

「嘘つけ、ボロ泣きじゃんか」


 伊織は慌てて扉を閉めて部屋へ入る。泣き続けて顔も袖口もぐしゃぐしゃになった一花の顔を覗き込む。


「お前、時々変だぞ。本当に何でもないのか? そんなわけないよな? 伯父さんになんかあったとかじゃないよな、それならママが騒いでるだろうし」

「ちがう……、パパは、週末に退院するから……」

「そうなんだ、良かったじゃん、一安心だな」


 心の底から安堵したような伊織の言い方に、一花の中でぷつりと糸が切れた。


「よくなーい! 全然、よくない! バカ、伊織くん、ばかー!」

「え? ちょ、おい、なんで殴るんだよ?! 伯父さんが元気になったのがなんでよくないんだよ?!」

「だって! パパが退院するんだもん、私も帰るんだもん! もう伊織くんと一緒にいられないんだもん! すぐロンドン行っちゃうのに! バカ!」


 ぐりぐり頭を撫でてくる伊織の手を振り払い、ほとんど勢いで思っていたことを叫び散らかす。自分の声なのに誰か他人がしゃべっているように聞こえる。でも一花は、そのすべてが自分の心からの本音だと分かっていたから、止めることは出来なかった。


「伊織くんは別に寂しくないんでしょ! いいよもう、ばーかばーか!」

「だからぶつなって。いいから落ち着けよ」


 無駄な抵抗を続ける一花の両手首をつかんで、まずは自分を叩き続けるのをやめさせる。そして無理やり床に座らせて、再び顔を覗き込んだ。


「お前、寂しいのか?」

「っ……、だって、ずっと一緒だったし、もうすぐいなくなっちゃうし、学校違うし、伊織くんどうせ遊びに来てくれないし」

「だから、寂しいのか?」


 イエスでもノーでもない、でも全身で寂しさとそれへの拒否を訴えてくる一花に、伊織はもう一度繰り返す。そして一花はやっと小さく無言で首を縦に振った。


「だったらそう言えよ……。なんだよ、またなんかあったんじゃないか心配したんだぞ」

「言え、って、だって……。言ったってしょうがないじゃん、伊織くん、来年から」

「あ、それ、行かね」

「……へ?」

「親父に相談した。親父には悪いけど、一人で行ってもらう。俺はこっちに残る。全部解決するまで、放り出してなんて行けない」


 唖然とする一花の前で、伊織は自分に言い聞かせるように残る理由を告げる。そしてもう一度一花を見た。


「お前を一人になんかしない」

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