第203話

 病院から外へ出た各務は、駐車場まで来てから再び病院を見上げる。まるで一流企業の本社ビルのような威容の、さらに最上階に、たかが骨折程度で入院している文哉に、今頃になって憎悪がわいてきた。


 二十一世紀になっても、身分の差は厳然と存在する。爵位制度もない今、財産の多寡が一つの目安ではあるが、金の価値などはるかに凌駕するのが『生まれ』であり『育ち』であり『血』だと思った。


 自分たち家族が散り散りになった理由、兄がいまだに目を覚まさない理由、そして自分が名前を変えなくてはいけなくなった理由。そのすべてが千堂家の特別な『血』のせいだ。


 そうとでも思わなければ、自分の努力が何一つ望みを叶える礎になっていないことの言い訳が立たない、と、各務は歯噛みしながら運転席へ乗り込んだ。


◇◆◇


 そろそろ年末公演の初日が近づいてきた。剣は出演はしないが、まだドラマの撮影も始まっておらず、CMの撮影も終了し、家にいてもいらぬことばかり考えてしまう自分に落ち込むだけなので、自主稽古も兼ねて毎日稽古場に出向いていた。


 剣が民放テレビの特別ドラマに桐子の脚本で出演することは、記者発表前から劇団員は知っていた。植田からの指示で外部への箝口令が敷かれたことで、稽古場で剣や桐子と会ってもあえて誰もその話題は出さなかなった。


 そして先日、正式に制作発表がされたことで公になった。

 最近では毎公演中心的な役を演じている剣が年末公演に出演しないことを不審がっていたファンが、やっとその謎が解けたことと合わせて、剣の抜擢に異様な盛り上がり方をし始めていた。


 今日も、剣がいつも通り稽古場に入ろうとしたところで、ファンに取り囲まれた。


「テレビ見ました! すごいですね!」

「絶対見ますー、頑張ってください!」

「超大出世だね、タッキー頑張って!」


 今までも女性ファンに囲まれることはあったが、大抵は以前から劇団そのものを贔屓にしてくれていたファンだった。それがあの日を境に、知らない顔が毎日のように増えていく。

 次第に稽古場の出入り自体に不自由するようになっていった。


 何とか人だかりの中をすり抜けてビルに入り、背中で扉を閉める。入口には警備員もいるため、さすがにその先へ乱入してくるファンはいない。そこでやっと剣は人心地がついた。


「よ、お疲れさん」


 待ち構えていたように植田が声をかけてきた。丸い髭面が殊の外安心感を掻き立てた。


「また増えてるな。香坂に聞いたけどこれからバンバン宣伝されるんだろ。もっと増えるかもな」


 桐子の名前が出たことで、のどの奥が一瞬熱くなる。自分とは一切の連絡を絶っているのに、植田とは今まで通りなのか、と。


「もう誰が誰だかわかりませんよ。まあでも、劇団の人気に貢献出来てよかったです」

「ばーか、ありゃ、お前だけが目当てなんだ。お前が出ない公演なんか見向きもしねえよ、きっと」

「……だったら、意味ないですね」


 正直、砂糖に群がる蟻のような群衆に、この数日だけで剣はすっかり辟易してしまった。桐子や環のいう『上を目指す』ということがこの状況を指すのだとしたら、やはり自分とは全く縁も興味もない世界だと再認識する。


「俺がなんか言ったら劇団に迷惑になるかと思って我慢してたんすけど、植田さんもあれが邪魔なら、今から行って追い払ってきますよ」

「こら、余計なことすんな。これから売り出し予定なのに余計な騒ぎを自分から作ってどうする。香坂にだって迷惑かかるぞ」

「っ……」


 最後の一言は、自分と桐子の関係を知ってあえて付け加えたのだろう。役者を志す者ならほぼ誰もが持っている『顔を知られたい、有名になりたい』という欲を持たない剣にとって、桐子は唯一のアキレス腱だと、植田は承知していた。


「てことで、お前、しばらくここに来るな」

「……え?」

「いい加減管理しきれない。ここらは繁華街だからな、ちょいちょい近所からも苦情が来てるんだわ」


 剣は息を飲む。まさかそんな形で迷惑をかけているとは思わなかった。


「他の団員の気も散るしな。稽古がしたいならほかの場所探してやるから、とりあえずしばらくは控えてくれ」


 植田は剣の表情から、自分の頼みごとが想定以上のショックを与えていることを理解した。ただし植田は劇団の主宰でこのビルの持ち主でもある。立場上、剣だけを甘やかすわけにはいかなかった。


 ダメ押しとばかりに頭を下げると、剣は力のない声で返事をし、そのまま裏口から出て行った。

 

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