第202話
各務が帰ったあと、文哉は体を起こしたまま会話を反芻していた。
年内には、屋敷の売却先を、松岡か各務か決める、と約束をした。各務の素性は、松岡から本名を聞いた時点で分かっていた。
各務靖。しかし生まれた時の名は『川又裕之』。
桐子を襲った犯人の実弟だ。
名前が変わるまでの経緯はわからないが、川又姓を名乗らず自分に近づいてきたということは、何かしらの意図があるとことは確実だろう。それも、文哉たち兄妹にとって喜ばしくないものが。
金の問題ではないのだろう。もし金に困って、ということなら、先般の亡き両親と交わした証書をもっと早く持ち出していたはずだ。何かしら理由をつけて増額することも出来ただろう。しかし各務は契約書通りの金額を受け取って一旦は姿を消した。
普通に考えれば、各務は加害者家族、こちらは被害者だ。わざわざ痛い腹を探られに来る意味が分からない。
しかし文哉は、犯人含めて川又家よりも自分の両親のほうを疑っていた。
中学生の娘が性的暴行を受けて不登校になるほど傷つけられても、家名を優先させて警察に手をまわして捜査を止めさせるような親だ。桐子のためではない、自分たちのために、彼らに何かをした可能性はある。
そして、川又一成。桐子を暴行した犯人は今どこでどうしているのかわからない。生きているのかそうでないのかも。
事件後、両親が事故死してしばらくは、文哉はずっと警戒していた。両親が事故死したことは多少の脚色をされて報道された。当然、川又家も知っているはずだ。未成年の自分が当主になったことを知り、与し易しと考えて接触を取ろうとしてもおかしくはない。さらに再び桐子に何かしらの危害が加えられないとも限らなかった。
だが、文哉が不審に思うほど、一切の接触も、気配すらないまま、二人は成人し、結婚し、数十年が経った。
もう終わったものだと思っていた。
桐子の事件も。文哉がやったことも。
あとは、一花が無事巣立って、千堂家と自分の罪のカタをつければいいだけだと思っていた。
それなのに。
今になって、もうすぐ終えられると思っていたものが、再び揺り動かされた。
(こんなことになるなら……)
文哉は一瞬頭をかすめた可能性を、首を振って慌てて振り払う。
売却先を決めるより先に、各務の意図を知らなければならない。
早く退院しなければいけない。自分がやらなければいけないことはまだまだある、と、強く両手を握りしめた。
◇◆◇
「兄さん、入っていい?」
外から桐子の声が聞こえ、文哉はやっと我に返る。反射で諾と答えていたらしく、静かに扉を開けて桐子が入ってきた。
「おはよう。具合、どう?」
いつもとは違う遠慮がちな様子に、文哉は不安を覚える。外では気を張ってふるまう桐子だが、自分の前ではわがままもネガティブな感情も隠さない。その桐子が、今は自分にもよそゆきの顔を向けていることに違和感を感じた。
「お前こそ、大丈夫か?」
「え、私?」
「何か、あったか?」
桐子は兄の敏感さに唖然とする。しかしそれが文哉だ、と思い直すと、自分の動揺や不安を誤魔化すことをやめた。
持っていた着替えを棚に仕舞い、文哉のベッドの横に跪く。そのまま布団の上に顔を伏せると、文哉はその後頭部に手を乗せた。
「さっきの人……、誰?」
聞いてもらいたい話はいくらでもある。伊織に言われたこと、夫の疲労、文哉との接点が減ることへの寂しさ。
しかしそれよりも、まずは聞いておきたかったのは、外から盗み聞いた先客と文哉の会話だった。
「さっき、って……」
「私より先に来ていた人、いたよね。前に一度だけ見た人」
「ああ……。前に話しただろ、三鷹の屋敷を買いたいって言っているうちの一人で」
「潰すって、何?」
「……あの屋敷を残しておきたくないんだ。だから、屋敷の解体を条件に買ってくれる人を探していた」
文哉の回答はよどみない。確かに祖父の家を売却する話は聞いていた。しかしその件と『潰す』という言葉の選択が結びつかない。
「それだけ?」
桐子は顔を上げ、文哉をしたから見上げた。思っていたより近くに顔があった。その兄の顔を見つめ続けた。
「……それだけだよ」
同じ言葉を繰り返す文哉を間近から見つめ返す。自分より数段上にいる兄が万が一嘘をついていたとしても、それを見破る力はないことは分かっている。見破れないとしても、妹への誠意として、嘘があれば告げてくれるだろう、と思った。
しかし文哉はそれ以上口を開くことはなかった。
桐子は、わかった、と言って、もう一度布団の上に顔を伏せた。
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