第201話

 翌日、いつものように桐子は文哉の病院へ行った。退院も近い今、以前のような見舞い品の整理の必要もないためほとんどすることもないのだが、洗濯物はほぼ毎日回収して届けていた。


 ナースステーションで看護師たちに挨拶をしてから病室へ向かう。扉を開けようとしたところで、中から声がした。

 

(日曜の朝いちばんで来るなんて、誰だろう)


 桐子ほどではないが、文哉もそれほど友人は多くない。無論親戚筋も今ではほとんどいない。

 そっと扉に近づくと、中の会話が聞こえてきた。


◇◆◇


「そうですか、そろそろ退院ですか。おめでとうございます」

「ありがとうございます。入院なんて初めてでしたが、窮屈なものですね」


 各務は笑みを浮かべて文哉の言葉に頷きながら、もう何十年もベッドに横たわったまま目を覚まさない兄の姿を思い浮かべる。

 定期的に様子をチェックしに来る看護師以外はほとんど誰も寄り付かない薄暗い病室。それと比べると、文哉の特別室は王族の寝室のように見えた。

 それを窮屈と表現する文哉に、胸の内で鼻白む。


「ご当主が入院されていたのでは、会社もさぞお困りでしたでしょうね」

「……うちは、滞ったところでさして問題はありません。社員にも、手が空いているなら休暇を取るよう指示しました。私が退院して出社したらむしろ嫌がられるかもしれませんね」


 実際は逆で、文哉がいなくてもあれこれ気が付いた業務を片付けてくれているらしい。一週間くらい休んで旅行でも行ってこい、とメールしたら、即座に返信が来て逆に怒られてしまった。


「ご家族も安心されたでしょうね。特に妹さんは」


 各務はあえて桐子の名を出す。文哉の病室へ直接見舞うのはこれが二度目だが、それ以外の日も様子を見に来ていた。そして桐子の姿を見ない日はなかった。

 夫は海外出張中、子供たちは学校。そして文哉の事故以来、桐子は愛人たちとはすっかりご無沙汰になっている。


 もしかしたら、と、下品な想像をするのは自分だけではないはずだと思っていた。


「まあ、そうですね。妹よりも、義弟に迷惑をかけていないかが心配です」

「家族ぐるみで仲がいいんですね」


 友梨から聞いている広瀬の様子は、一日中席の温まる暇もないほど多忙らしい。そして最近はほぼ必ず友梨と食事をしてから帰宅している。夫の帰宅が遅いことと実兄の入院。桐子にとって本当に気がかりなのはどちらなのか、と、当人たちに問いただしたい衝動にかられる。


「各務さんにも松岡さんにも、例の件で大変お待たせしてしまっていますね。本当に申し訳ない」


 思いがけず不動産の件を文哉から持ち出され、各務は一瞬面くらう。まさか忘れてはいないだろうか、とも思っていたので渡りに船だった。


「仕方ないですよ。事故に遭われたんですから。松岡先生もきっとそう思っていらっしゃるのでは? それともまさかせっつかれましたか?」

「いえ、あちらからも何も……。でも、年内には結果をお伝えいたします。それはお約束いたしますよ」

「助かります」


 一瞬、突風が窓を叩いた。二人でそちらへ顔を向ける。


「以前も聞いたかもしれませんが」


 顔を窓へ向けたまま、文哉が口を開いた。


「各務さんはどうしてあの土地屋敷を購入しようと思ったんですか?」


 コーヒーと紅茶どちらにしますか? と問われているような、ごく自然な語り口調なのに、各務は文哉から目に見えない刃物を突き付けられているような気がした。

 手の甲の産毛がそそけ立つような緊張感が走る。


 嘘をついてやり過ごすべきだ。

 どこかからそう言う声が聞こえる。しかし文哉から伸ばしてきた手を払いのけるには、各務の鬱屈は溜まり過ぎていた。


「……ご要望通り、お屋敷は潰しますよ。ご安心ください」


 文哉は、自分の問いに対する答えになっていない各務の言葉に、満足したように頷いた。




 病室の外で聞き耳を立てていた桐子は、各務の最後の言葉に不気味さを感じずにはいられなかった。


 


 

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