第200話
夕食後、片づけを済ませた桐子が寝室へ行くと、先に風呂を済ませていた広瀬がいた。
夕食を一緒に取るのは数日ぶりだったこともあり、桐子は広瀬をいたわる言葉をかけた。
「今日はゆっくりできた? 最近、毎日忙しいみたいね」
「……ああ、さすがに差し迫ってくるとね。僕がこっちにいない間の引継ぎもあるし……」
普段よりも声に力がないことを感じて、桐子は少し心配になる。出張から戻ってきたらほとんど休暇もなく出勤し、以前より残業も増えている。疲れていないわけがなかった。
「明日も休みでしょ。私は午前中だけ兄さんの所に行ってくるけど、お昼には帰ってくるから、あなたが食べたいものを作るからゆっくりして」
「お義兄さん、どう?」
「そろそろ退院出来るみたい。まだ日にちは確定してないけど」
「そうか、思ったより早くてよかったな」
広瀬は、話の流れからごく自然にそう答える。無論、妻も同意すると思っていた。
だが、広瀬が期待した返事は返ってこなかった。
「一花ちゃん一人で、まだ万全じゃない兄さんのお世話は大変よね。せっかく伊織とも仲良くなれたのに……」
桐子はこちらに背を向けているから、どんな表情をしているのかはわからない。ただ、なぜか実兄の回復を残念に思っていそうな空気は伝わってきた。
『親父はママのこと全部知ってるの?』
先刻の伊織の言葉を思い出す。そして、友梨の言葉。
『興味がないんじゃないですか?』
友梨は、桐子が広瀬に興味がないのでは、と吹っ掛けてきた。しかし今は逆のことを考えていた。
(僕は……桐子をちゃんと知ろうとしたことがあるんだろうか)
ずっと恋人同士だったから、結婚して夫婦になって子どもも授かったから、ずっと大きな喧嘩もなく一緒に生活してきたから。
だから自分たちは分かり合えていると思っていた。
たとえ、大きな問題を抱えていても。
その事実と、自分たちの相互理解は別だと思っていたし、桐子に夫として信頼されている自信はあった。
それが今になって、揺らいできている。
「……あなた? 大丈夫?」
そっと肩を叩かれて、広瀬ははっとして目の前の桐子に目の焦点を合わせる。しかし桐子を見ているつもりで、広瀬の思考は書斎から消えた封筒のことでいっぱいだった。
「桐子……、前にも聞いたんだけど、僕の……部屋から、何も持って行っていないよね?」
「出張から帰ってきた日に言ってたこと? ええ、何も持ち出してないわ」
「……本当だね?」
「本当よ。……ね、何か大事なものが無くなったの? だとしたら一緒に探そう?」
桐子は広瀬の前に膝をついて、下から見上げるように覗き込んでいる。その顔は心から心配してくれているように見えて、疑っている自分を殴りたくなるほどだった。
「いや……大丈夫だ。うん、気のせいだよ、きっと」
「気のせい? 失くし物が?」
「うん……、そうだな、明日は鍋が食べたいな。大分寒い日が増えてきたしね。いいかな」
「ええ……、じゃあ、夜はお鍋にしましょう」
「ありがとう。じゃあ、僕は先に寝ているね」
そう言ってベッドに入ると、そのまま目を閉じてしまった。
桐子は釈然としないながらも、疲れている広瀬をこれ以上追及するのも気が引けたので、明かりを消して部屋を出た。
桐子が出て行った気配を確認し、広瀬は再び目を開ける。
封筒の行方どころか存在すら知らなそうな桐子は、やはりシロなのだろう。
しかし出張に出る前はあったはずのものが無くなっている。誰かが持ち出したことは確実だった。
(じゃあ、やっぱり伊織が……)
広瀬は絶望的な溜息を、誰にも気づかれないように注意深く吐き出した。
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