第199話

 伊織が出かけた後で、一花は目が覚めてダイニングへ降りてきた。桐子は片付けの手を止めて声をかけた。


「おはよう。昨日は眠れた?」


 まだ完全に起きていなかった頭が、桐子の言葉で昨日の出来事を再生し始める。突発的に家に帰りたいと言い出した一花が桐子に宥められて落ち着いたと思ったところで、一番最後のシーンにたどり着いて思わず悲鳴を上げた。

 びっくりした桐子が慌てて駆け寄ってくる。


「ど、どうしたの? 大丈夫?」

「え、え? あ、うん、うん大丈夫! ごめんね、おばちゃん……。あの、伊織くんは?」

「伊織は友達と約束があるって言って、大分早く出かけたわ」


 このタイミングで顔を合わせたら、とパニックになりかけたが、いないと聞いてほっとした。


(だってだってだって、伊織くん、ほっぺにちゅ、って……! きゃああ! 思い出しても恥ずかしい!)


 きっと真っ赤になっているだろう自分の顔を桐子に見られないよう、一花は寝癖を直すふりをして顔を隠した。


「昨日、伊織がひどいことしたみたいで、ごめんなさいね」


 朝食用のプレートを差し出しながら、桐子が一花に謝罪した。昨日の伊織の話からすると、自分への不信が形を変えて一花へぶつけられたのだろうと予想できる。だとしたら、自分が謝らなくてはならない。


「細かくは聞いてないけど、多分あの子は一花ちゃんに怒ったんじゃなくて、私が」

「い、いいのいいの! 昨日伊織くんにもたくさん謝ってもらっちゃったし、確かに私もちょっとはしゃいじゃってたところもあったし……。だからおばちゃんももう気にしないで」


 えへへ、と頭を掻きながら両手でカップを抱えてオレンジジュースを飲む一花に、桐子は目を細める。

 男手一つで、兄はよく姪をこんなにいい子に育てたものだと感心する。

 それとも、明るくて真っ直ぐな一花の亡母に似たのだろうか。


「兄さんが退院したら、一花ちゃんも帰っちゃうのよね。寂しくなるわ」

「そ、そんな。うちも……、伊織くんがいた間楽しかったし、でもいい加減うちにいるのもおかしいしね」


 父の退院の話を思い出し、一花は急に気持ちが暗くなった気がした。父の回復は純粋に嬉しい。しかし病後の父を一人で家に置いておくわけにはいかないから、自分は自宅へ帰ることになる。しかし今度は、伊織も自分の家に残るだろう。

 元の生活に戻るだけなのに、それ以前はどうやって暮らしていたのか思い出せないほどの喪失感が、一花の心を重くしていった。


「年明けには、ロンドン行っちゃうんだもんね」


 さっきまでの笑顔が吹き飛び、ぼんやりとつぶやく一花を、桐子は痛ましげに見つめていた。


◇◆◇


 松岡との、釈然としない食事会が終わって家に帰ると、広瀬がリビングでゴルフ中継を見ていた。


「おかえり。友達と遊んでたにしちゃ、早いな」

「う、うん。期末試験も近いしね」


 久しぶりにリラックスした様子の父を見て安堵する一方、昼間松岡に、


『ロンドンに行くのやめようかな』


 と言ったことを思い出した。

 あの時は思い付きだったが、今では行かないほうへかなり心が傾いている。

 あと数か月後には父と二人で異国で暮らし始める、というほぼ確定している予定に、どうしても現実感が持てなかった。


 伊織は近くに母がいないことを確認し、父の前に立った。


「あのさ、親父。ちょっと相談したいことがあるんだけど……」


 もう自室へ戻ったと思っていた伊織がまだいたこと、そして自分に相談があると言ってきたことに驚いたが、広瀬はうなずいて、テレビを切って立ち上がった。




「相談って、どうした? 進路についてか?」


 書斎に入ると、広瀬のほうから伊織に切り出した。しかし伊織は、重そうに口を開いた。


「俺さ……、ロンドン、行かなくてもいいかな」


 思ってもいなかった話に広瀬は驚く。すっかり渡英に同意したものだと思っていた。


「やっぱり、ママのそばから離れたくない、か?」

「違う。前は……そうだったけど、でもそれは親父たちが心配するような、マザコンとかそういうんじゃなかったんだ。でも今回は、ママのそばにいたい訳じゃない。こっちに残ってやりたいことがあるんだ」

「日本の大学に進学したい、ってことか?」

「それもまだ決めてない。大学は……こんなこと言ったらまた怒られるかもしれないけど、その時になって決めたとしてもそこそこの大学には受かると思う。今はそれよりも大事なことがあるんだ」


 勧めた椅子に座りもせず、立ったまま切々と訴えてくる伊織に、広瀬は腕を組んで考え込む。息子の希望なら叶えてやりたいとは思うが、日本に残りたい理由も今の話では不明瞭だった。


「どうしてそんなに、こっちに残りたいんだ?」

「それは……」


 伊織は言いよどむ。一番はっきりしている理由は一花を一人にしておけない、というものだ。しかしそれもさらに突っ込まれるとまだ父には話せない事情が絡んでくる。

 今や伊織にとって母は謎の塊だ。父はその夫なのだ。伊織が母に疑惑の目を向けていることを知れば、自分を叱るか説得するかしてくるかもしれない。家族の輪を大事にする父らしい行動だが、母の謎が解ける前に、それを有耶無耶にしたまま形だけの同意はしたくなかった。


「親父は……ママのこと、全部知ってるの?」


 伊織は父の質問に答えていないまま、思案の先にぶつかった疑問をそのまま投げかける。何を当たり前のことを、と一笑に付されるだろうと予想していたが、父はその質問には答えてくれなかった。

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