第198話
土曜日の朝。伊織は友人と約束があると母に言い置いて家を出た。
松岡との約束は昼前だが、一人になって考えを整理したかったのだ。
待ち合わせ場所の最寄り駅まで電車で移動し、目に付いたカフェに入った。
昨日も父の帰宅は遅かった。最近残業が増えているのは、恐らく年明けの赴任があるからだろう、と、伊織も見当はついている。
父から『お前も連れていく』と言われてから、短い間に色々あったためか、その約束自体が既に無効になっているような錯覚を覚える。
最初に言われた時は母のそばを離れることが不安で拒絶した。しかし今では、少しずつ見えてきた真実を中途半端にしたまま離れることへの不安が勝っていた。何より渦中に一花を一人置き去りにするようで後ろめたかった。
◇◆◇
「よ、早いな、時間厳守とは偉いぞ」
待ち合わせ場所に先に着いていた伊織を見つけると、松岡は上から頭をぐりぐり撫でる。撫でる、というより手の平で頭を掴んで回されているような乱暴さに、伊織は慌ててその手を振り払った。
「早く出てきたんです。マ……母に感づかれたくなかったし」
「お前のお袋は変なとこ感づきそうだもんな。じゃ、腹減ったろ、乗れよ。昼食いながら話そう」
伊織は微かに頭を下げて、助手席へ座る。左ハンドルの車は助手席に乗ると普段と景色が違っていて新鮮だった。興味深げにキョロキョロしていると、松岡が声をかけた。
「なんだ、車好きなのか?」
「いえ、左ハンドルだと、助手席が右側じゃないですか。こっち側は初めてだから、不思議な感じがして」
「そういうことか。まあ、確かにな。場所が変わると見えるもんも違うよな」
「場所が変わると……」
松岡の何気ない一言が、朝の思案と繋がった。今自分は、過去とは違う場所から母を見ようとしているのかもしれない。
「松岡さん、俺、ロンドン行くのやめようかな」
考えるより先に口が動いていた。松岡はバックミラーでその表情を確認しようとしたが、運転に集中するためやめておいた。
◇◆◇
「今日も個室ですか?」
「人に聞かれないに越したことないだろ。どこにお前ん家の名前に反応する輩がいるか分からないんだからな」
大袈裟な、と思わなくはなかったが、伊織は大人の言うことは比較的正しいことが多いのを経験から知っている。大人しく従って腰を下ろした。
「その……、教えてもらっていいですか、あの男の人のこと」
松岡は頷いた。
「名前は田咲剣。都内の小劇団の注目の若手俳優で、来春放映予定の特別ドラマに主演予定だ。お前のお袋の脚本でな」
「それはもうママから聞いた。ママに憧れて役者になった、って」
桐子から聞いた、という伊織の告白に、松岡は意外な気がした。桐子ならそのあたりを誤魔化すだろうと予想していたからだ。
「ママの脚本で主役やるのが夢だって。俺、ママの書く話ってどんなのか知らないから……。主役がやりたいなら他でもいいのに、なんでママなんだろうな、って」
「俺も芝居の世界のことは良くわからん。だが、あの男にとってはそれは特別な意味があるんじゃないのか?」
「芝居にかこつけて、ってことは、無いんですか?」
「お前、お袋とあの男の関係疑ってんのか?」
松岡は伊織が破れないまま立ち止まっている壁を破壊した。それは図星だったようで、目と口を大きく開けたままフリーズしてしまった。
「どうして、そう思った?」
伊織は言葉に詰まる。思ったことをそのまま言えばいいのに、何を言えばいいか分からない。
「何か決定的な証拠でも見たのか?」
伊織が話しやすくなるように、松岡は質問を続ける。伊織は下を向いて首を振った。
「お前のお袋とあの役者は親子ほど年が離れてるぞ。普通に考えたらあり得ないな」
「あの人が、っていうよりも、ママが……」
「……お袋さんが?」
「ママが……」
失礼します、と外から声が掛けられたので伊織は口をつぐむ。襖が開いて次の料理が並べられる。車じゃなかったら、と松岡が残念に思ってしまう内容だった。
「……もしお前の想像通りだとしたら、どうするんだ?」
「ど、どうって……」
「お袋とケンカするか。親父にばらすか。家出でもするか、チビ連れて。相手の男を殴りに行くか。今更だけどグレるか? せっかくだから全部やるか。家出する場所を提供してやってもいいぞ、乗りかかった船だからな」
「そんなこと……」
「やらないのか? じゃあ、黙ってるのか。自分の親が若い男と寝てるかもしれないのを」
煮え切らない伊織を、松岡の言葉が更に追い立てる。直接的な表現が再び伊織の息を止める。
松岡は箸を置き、居住まいを正して伊織と向き直った。
「一つだけ伝えておく。あの男はお前たちにとって味方になる」
「……味方、って、ママの?」
「お袋だけじゃない、お前たち一家、いや、一族にとって、だな」
伊織は松岡の言葉の意味がさっぱり分からず困惑する。しかし松岡の表情は真剣そのもので、だから意味不明な言葉も、まるでおとぎの国の老賢者の訓えのように聞こえた。
「この先、何か問題が起きるかもしれない。俺も力になるつもりだが、人手は多いほうがいい。お前があの二人に何か言ってやりたいことがあるなら、すべてが終わってから決めても遅くはないと思うぞ。……ほら、冷めるぞ、どんどん食え」
結局この日は、食事を終えて解散するまで、桐子と剣についての話をすることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます