第196話
二人は伊織の部屋に入った。伊織がベッドに腰掛けたので、桐子は勉強机の椅子に座る。
「話って、何?」
「今日さ、ママ、テレビ出てたよね」
一瞬何のことかと思ったが、ドラマの制作発表の件だと気づいて頷く。
「ママは裏方だけどね」
「あの人が主演なんだね、なんだっけ、親父と写真映ってた人」
真っ先に剣の名が出たこと、伊織が真剣そのもので、恐らくそれが一花を叩いたことにも関連しているのだ、と気づいた桐子は、一瞬で腹をくくった。
「そうよ。ママの先輩が主宰してる劇団の人。一花ちゃんの文化祭でもちょっと会ったでしょ」
「覚えてない」
まあそうだろう、と、桐子は頷き、次の言葉を待つ。
「あの人とママ、親しいの?」
「あの人ね、ママの脚本の舞台を観て役者になりたくなったんだって。それもあって、植田さんから面倒見てやれって言われてるわ」
「……それだけ?」
「環の会社が関わるテレビCMにも出演したわ。まだ放送されてないけど。その時も環に頼まれて出演するよう説得した」
「あの人、ママがいるからドラマ出ることにした、って言ってた。なんで?」
「ママの脚本で主役をやるのが夢だった、って言ってたわ」
自分の質問に、言い淀むことなく答える母の様子に、伊織は少しずつ気持ちが軽くなっていく。しかし、その答えのどれもが、自分が知りたかったことではないようにも感じてすっきりしない。
「あの人って、さ……」
(ママの、何?)
本当はそう聞きたい。しかし、答えを聞くのが怖い。嘘をつかれるのも、自分が望まない答えを聞くのも、どちらも。
「田咲くんが?」
「……い、一花とも仲良いんだよね」
思わず誤魔化した。だが桐子は深くため息をつく。
「一花ちゃんが劇団の事務所に私を訪ねてきた時に知り合ったみたい。だから私のせいなんだけど……。まだ学生の一花ちゃんに余計なこと言わないか心配なのよね」
「あいつは……大丈夫だよ」
「そう? なら良いんだけど」
思わず桐子はクスリと笑う。伊織はこの流れのどこで、と、怪訝な顔を向けた。
「本当に仲良くなったのね、二人とも。一花ちゃんのことすごく信頼してるみたい」
「そうかな。まあ……なんだかんだで二カ月近く一緒に住んでるし」
伊織の口調から硬さが抜けたのを感じて、今度は桐子が問いかける。
「ねえ、一花ちゃんのこと、どうして叩いたりしたの?」
伊織は下を向いたまま、膝の上で拳を握り締める。まだ右手には一花の頬の感触が残っていた。
なぜあの時自分がキレたのか。
それは。
「ママ、俺さ、ずっと考えてたことがあるんだ……」
一花の件とは関係の無さそうに思えたが、桐子は頷いて聞き続ける。
「前に俺、家飛び出して環さん家に泊めてもらったことがあるじゃん。あの時、環さんにも話したんだけど、……ママって、どこか……信じきれない」
桐子は、息が出来なかった。
だが同時に、来るべき時が来た、とも思った。
◇◆◇
今日も夕食時に広瀬は間に合わなかった。最近は夕食も外で済ませることが増えているらしく、今日も広瀬の分を取り分けておいたものの、明日の朝食に回すことになるかもしれない。
誰もほとんど口を開かないままの食事がこれほどの苦痛なのだ、ということを久しぶりに思い出していた。実家では常にそうだった。食事をしながら会話をする、など、マナーにかなわないと母が絶対に許さなかった。それ以前に、桐子の話に耳を傾けてくれる人は文哉以外にはいなかった。
結婚し、伊織が生まれ、新しい家族を持って初めて、団欒、というものを知った。料理を取り分けたり、皆で一つの鍋をつつきながら、その日にあったことや週末の予定を語る。野菜嫌いの伊織を窘める自分と、息子を庇う夫。幸せ過ぎて、その意味が分かっていなかった。
そしてそれが、今日初めて得られなかった。
その原因は、表向きは伊織と一花の諍いだが、遠因は自分なのだ。
桐子は食事の後片付けをしながら、この期に及んでまだ、取るべき道とその反対方向へ引っ張られようとしている自分に引き裂かれ、持て余していた。
◇◆◇
「一花、俺。……入ってもいいか?」
後はもう寝るだけ、という時間に、伊織が部屋をノックしたので、一花は驚く。しかし当然寝られる気はしていなかったので、立ち上がって伊織を部屋へ入れた。
「ごめんな、こんな時間に」
一花は、ううん、と首を振った。
「私がいけないの……。あの、揶揄ったりして、ごめんなさい」
「ちがっ……、お前は全然悪くないんだ。あれは、俺が」
先に謝られたことで、伊織は慌てる。明らかに自分が悪いのに、被害者に頭を下げられてはどう償えばいいのか分からない。
「俺がガキだから……。お前の言う通りだよ。やきもち、って言うんじゃないけど、なんか……あの人見てたらすごく怖くなったんだ。そういう意味では図星刺されて、キレた。でも、だからってお前を殴っていい理由にはならない。本当にごめん!」
二人とも床に座っていたので、伊織はほとんど土下座状態になる。すると今度は一花が慌てた。
「やめてやめて、そんなこと……。じゃ、じゃあ、仲直りってことで、いいの?」
「お前がそれでいいなら……」
「もちろん! 良かったぁ。じゃあ、また明日から、よろしくね」
一花が細い手を差し出す。その手をじっと見つめていると、伊織は尚更自分がやったことを強く後悔する。自分より華奢で小さく力も弱い一花を、加減もせず殴ったのだ。
だが、彼女は自分を責めずに許すと言ってくれている。母に言った通り、一花は頼もしい。信用に値する人物だと思った。
今までは自分が守らなければ、と思ってきたが、もしかしたら一花のほうが自分より大人かもしれない、と。
一花が差し出す握手の手をすり抜けて、自分がひっぱたいた彼女の頬に手を伸ばす。
「痛かったよな、あれ。……まじで、ごめん」
「も、もういいってば。その……恥ずかしいよ」
真っ赤になって俯く一花が、たまらなく愛おしくなる。
ずっと母に縋りついていた心が、一花に拠り所を見出し始めていることに、伊織は気が付き始めていた。
「ごめん」
もう一度謝ると、そのまま一花を引き寄せて、手を当てている反対側の頬へ口づけした。
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