第195話

 制作発表が終わった後、坂井と小一時間打合せをして、桐子は帰宅の途についた。 タクシーで最寄り駅前のスーパーに寄り、買い物をして帰る。晩秋の夕暮れは早い。すでに辺りは暗くなっているが、自宅には明かりが灯っていなかった。

 伊織や一花は帰っているはずの時間で、普段なら二階のどこかは電気がついている。それもないことに桐子は家族の異変を感じた。


「ただいまー。伊織? 一花ちゃん? いないの?」


 がちゃり、と、重い扉が閉まる音が響くなか、普段より心持ち大きめの声で屋内に呼びかける。玄関には二人の通学用の靴が並んでいるから、家にいることは確認できている。

 桐子は荷物をダイニングテーブルに置いて、そのまま二階へ上がった。


「伊織? いるんでしょ? どうしたの?」


 ノックしながらまず先に息子に声を掛ける。が、内側からの応答はない。不審は不安へ変わっていく。暫く待ったが静かなままなので、今度は一花が使っている部屋をノックした。


「一花ちゃん? いる? 具合悪いの?」


 声を掛けてから、中の様子を伺う。先ほどより辛抱強く待っていたら、ゆっくりと静かに扉が開いたので、桐子はホッとした。


「良かった、帰ってたのね。お部屋真っ暗だけど、どうしたの?」


 体調を心配して、一花の前髪をかきあげて額に手を当てる。微かに体温が高い気がして、やはり風邪かと思ったら、一花が小さく震え出した。


「どうしたの? 大丈夫?」

「……おばちゃん、私……。ごめんなさい、家、帰る……」

「え? 帰る、って、一花ちゃんのお家に? まだ兄さんは退院してないわよ?」

「私がいたら……、迷惑かけちゃう……」


 一花が何を言っているのかさっぱり分からず桐子は狼狽する。額に当てていた手を頬へ移動させると、一花が涙を流し続けていることが分かった。


「泣いてるの……?」


 言わずもがなの事実だが、確認しないではいられなかった。しかし一花はふるふると頭を振って否定する。

 桐子は一花の肩を抱いて、部屋の中に入り座らせた。伊織の様子もおかしいことを含めると、二人の間で何かがあったのだろう、と予想する。だから一花は、伊織に遠慮して『家に帰る』と言い出したのだろう。


「何があったのかは分からないけど、一花ちゃんがいても迷惑なんかじゃないわ。それに兄さんもいないあの家に、一花ちゃんだけ帰すわけにいかないでしょ」

「でもっ……」

「……ここに居たくない?」


 桐子の問いに、一花はびくっと身を震わせる。うん、と答えれば、自分がこの家を、家族を拒絶していることになる。自分が拒絶しているのではなく、拒絶されているのだ、と思っている一花には、答えられない問いだった。


「じゃあ、おばちゃんと一緒に帰ろうか」

「……え? ……で、でも、伊織くんは?」

「もう少ししたら叔父さんが帰ってくるから、伊織はそっちに任せましょう。ご飯は作っておくから、お腹が空けば食べるでしょ」

「だ、だめだよおばちゃん、そんなの、伊織くんにもおじちゃんにも悪いよ……」

「じゃあ、ここに居てくれる?」


 叔母の誘導尋問にはまったことに気づいたが、一花は更に迷う。

 この家に居たくないわけじゃない。ただ、伊織を怒らせてしまったことで、居場所を失ったような気がした。伊織は何も言わないけれど、自分がここにいることが嫌なのだろう、と思っていた。

 伊織のそばにいたい。仲直りしたい。でも、伊織の邪魔になりたくない。

 一花はまた黙り込んでしまった。


 その時、外からノック音が聞こえた。


「ママ、俺」


 伊織の声に、一花は更に体を固くする。桐子がその背を優しくさすりながら、座ったまま返答した。


「入ってらっしゃい」


 それに従った伊織は、一花と負けず劣らず暗い表情で入ってきた。ずっと部屋が真っ暗なままだったことにその時気づき、電気をつけるよう伊織に促す。

 パッと辺りが明るくなる。

 そして、伊織の表情は、暗いだけではなく怒気が込められていることに桐子は気づいた。

 しかし一花の怯えとは裏腹に、伊織の目は桐子へ向けられていた。


「一花は悪くない。俺が、一花をひっぱたいた」


 息子の告白に桐子は驚く。伊織は小さい時から友人は多かったが、そうした揉め事を起こしたことは一度もなかったからだった。

 どうして、と理由を聞こうとしたら、先に伊織が口を開いた。


「ママ、少し、話がしたいんだけど」


 拒否を許さない余裕のなさに、桐子は頷かざるを得なかった。一花から手を離し、伊織の後に従った。


 


 

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