第193話
今日は、都内のホテルの宴会場を使って『記憶の軛』の制作発表記者会見の日だった。
剣は坂井に『スーツでお願いします』と言われたので、劇団の先輩に付き合ってもらって新しく誂える。紳士服店では事情を知ったベテラン販売員が張り切ってあれこれ選んでくれたおかげで、坂井からも高評価で、場違いと言われずに済んだことにほっとした。
待合室に行くと、既に数人の出演者や関係者が来ていた。若輩の自分が最初じゃなかったことに焦って頭を下げると、CMでも共演した井口が笑って出迎えてくれた。
「君が主役なんだから、そんな小さくなるなよ。デカい体して」
そしてバンバン、と背を叩く。剣は恐縮しつつ、室内を見渡す。まだ桐子は来ていないようだった。
(もしかしたら別の部屋にいるのかな……)
松岡や坂井たちとの会食以来、桐子とは顔を合わせていない。もちろん桐子から連絡もない。以前なら無理矢理理由をこじつけて会う算段をつけていたが、松岡と話をしたこと、ロンドンで思いがけず桐子の夫と顔見知りになってしまったことで、自分からの連絡も出来ずにいた。
劇団の年末公演には出演しない剣にとって、今やこのドラマだけが自分と桐子を繋ぐ絆だった。だから、会えることを期待していた。わざわざスーツを新調したのはそれもあってのことだった。
期待が外れたことで少なからず意気消沈しつつ、空いている椅子へ腰を下ろす。入れ代わり立ち代わり剣に声をかけてくれる役者達に挨拶をしていると、その中で『はじめまして』と声をかけてきた人物がいた。
「顔合わせの時はご挨拶が出来ませんでした。川又友梨と言います。よろしくお願いします」
剣より頭一つ小さい小柄な女優が、にこやかに微笑んで手を差し出してきた。剣は、確かに初めて見る顔だ、と頷きながら握手と挨拶を返す。
「田咲剣です。舞台経験しかなくてご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
「そんな。実は舞台拝見したことありますよ。すごかったです」
友梨の言葉に剣は驚いた。
「あんな小さな劇団なのに。ありがとうございます」
植田が聞いたら後ろから蹴飛ばされそうな言葉と共に、剣は頭を下げる。友梨は恐縮したように慌てて手を振る。
「小さくてもファンたくさんいるじゃないですか。結構チケット取るの大変でしたよ。きっと、脚本が香坂先生だからですね。私、先生のファンなんです」
「ほんとですか?!」
剣は、劇団よりも桐子が褒められたことに心から喜ぶ。そして友梨への親近感がぐっと強くなった。
「先生のホンは本当に素晴らしいですよね! 俺も初めて見た舞台が香坂先生で、それで今の劇団に入れてもらったんです」
「そうなんですか? それで今回は先生の作品で主演でテレビデビューなんて、すごいですね。とっても期待されてるんですね」
いや、これは偶然で、と急に及び腰になる剣に、友梨は表面上は微笑みながら、一人の役者として嫉妬を感じないわけにはいかなかった。
その時、スタッフ皆に声を掛けた。
「じゃあ皆さん、会場へ移動お願いします。あ、田咲さんと井口さんは最後で」
剣は頷き、井口の隣へ向かって待機する。
未知の世界への扉が開く。その恐怖から逃れたくて出来れば先に桐子の顔が見たかった。が、思いがけず桐子にまつわる話が出来たことで、恐怖はすっかり消えていた。
(この作品で結果を残す。そして桐子さんも守る。彼女を諦めない)
先日の松岡とのやり取りを思い出す。あとから考えると、一方的に言われ続けていたような気もする。松岡は自分の知らないことを知っているような口ぶりだったが、それは彼が剣より高いところにいるだけでなく、ただ情報を握ってこちらへ開示していないだけだ。
逆に言うと、演劇の世界で桐子のそばにいるのは、松岡でも広瀬でもない、自分なのだ、という自負が湧いてきた。
「では、お二人どうぞ」
スタッフに声を掛けられて、剣は会場に足を踏み入れる。一斉にカメラのフラッシュが光る。剣は意識してゆっくりした足取りで自分の席へ向かう。
その途中、剣を見つめている桐子と目が合った。
桐子にだけ伝わるように、目だけで頷いた。
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