第192話

 伊織の部屋に入り、いつものように床の上にぺたりと座り込んだ一花は、『話がある』と言ったのにそのまま黙り込んでいる。

 普段の一花らしくない様子から、伊織は彼女が話し始めるのを待ったが、そのまま十分、ニ十分と黙ったままなので、伊織から声をかけた。


「よかったな、伯父さんの退院が決まって」


 夕食時の延長で話を振る。一花の固い空気をほぐすつもりだったが、一花は何かを刺激されたように勢いよく顔を上げた。


「あ、あの……、あのね、伊織くん、私……」


◇◆◇


 一花は人生で一番の、ありったけの勇気を振り絞って口を開きかけた。自分に気圧されて驚いたように、でも心配そうにこちらを見つめる伊織に、好きだという気持ちが溢れて止まらなかった。


 初めて男の子に特別な感情を抱いた。初めて、というところではしゃいで、親友の加奈と恋バナして盛り上がるのが楽しかった。


 だが、自分達の家のことを一緒に調べたり、一緒に住むようになって、どんどん気持ちが育ってしまった。今では加奈に相談することも出来ない。ほんの少しでも否定的な、自分の望まない未来に結び付くようなことを言われたら、立っていられなくなりそうで怖くなった。


 ずっとこのままでいられたら。


 父の退院は素直に嬉しい。事故の影響が思いの外ひどくて退院できなくなるとか、寝たきりになったら、と想像したこともあった。

 父の事故が無くても、伊織は近いうちに外国へ行ってしまう。連絡は取れるだろうが、こうして直接顔を見て言葉を話す機会は格段に減る。その間に自分以外の女の子が伊織と距離を詰めるかもしれない。普通に考えれば十分あり得るその想像が、一花にとっては何より恐ろしかった。


 しかし、だからといって一花に未来を変える力はない。恐ろしい未来を、ただ黙って受け入れるしかない。


(どうせ変えられないなら……)


 せめて気持ちだけでも伝えたい、そう思った。今日、と決めていたわけではなかった。

 だが、父の退院が近いと知った。それは伊織と一花の同居生活の終わりを意味する。それに気が付いたら、いてもたってもいられなくなり、勢いで伊織の部屋をノックしていたのだった。


◇◆◇


「私、わたし……」


 伊織くんが好き。


 そう言おうとしたが、どうしても声が出ない。ここまで来て何を、と、自分の意気地なさに腹が立つ。緊張と焦りと悲しさが爆発してしまった。


「っ、お、おい、一花?! どうしたんだ?」


 一花が何かを言いかけたので待っていたが、言葉に詰まってしまったようだった。尚も待ち続けていたら、大きな目からぼろぼろと涙がこぼれてきた。


「え、あれ? 私……」


 一花もまさか自分が泣くとは思わなかった。自分が泣いている事実よりも、慌てながら覗き込んできたり、涙を拭くものを探している伊織に一花は驚いた。


「伊織くん、なんで慌ててるの?」

「あ? ばか、お前が泣くからだろ! どうした、なんかあったか? 大丈夫だよ、伯父さんは元気だってママも言ってたじゃん。お前もそう思ったんだろ?」


 無器用に自分のトレーナーの袖口で一花の涙をぬぐい続けてくれる。至近距離に伊織の整った顔があった。男なのに長い睫毛や茶色い目の色が、父のそれと重なって見えた。


「学校でなんかあったとかか? あ、部活か? 友だちとケンカしたのか?」


 伊織は何とか一花の涙を止めようと必死で理由を探す。しかし一花にしてみればその全てがピントがズレすぎていて、でも自分のために一生懸命になっている伊織の様子に満足して、もう十分だと思えた。

 余計なことを言って、この関係を壊してしまうことのほうが怖くなった。


「な、何でもないよ。ごめんね、うん、パパが退院するって聞いて、ホッとしたの」

「……ほんとか?」

「ほんとだよ。ずっとお世話になっちゃったから、伊織くん達にはお礼しないとね」

「何言ってんだ、お礼なんていらないよ」


 一花の涙の理由に合点が行った伊織は、ホッとして力が抜ける。まだ目も頬も赤くしたままの一花の頭を抱き寄せた。


「俺だってお前ん家にずっと世話になったしさ。それに、もし本当に困ったことがあったら言えよ。絶対に俺がお前を守ってやるからさ」


 伊織の行動と言葉で、一花の心臓が再び跳ね上がる。視界は伊織の濃紺のトレーナーで塞がれている。思わずそれを掴んでしがみついた。


「そ、んなこと言われたら……ほんとに頼っちゃうよ? 甘えちゃうよ?」

「おう、全然いいぞ」


 ぐしゃり、と一花の頭を撫でると、腕を離す。


「もう妹みたいなもんだと思ってる。いつでも甘えろ、な?」


 そう言った伊織の笑顔はとてつもなく優しくて、一花の中で何かが割れる小さな音がした。


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