第191話

 桐子は今でも毎日文哉の病室を訪れていた。

 毎日来る必要はない、と、文哉から再三言われていても、何故か来なければならないと思い続けている。

 毎日見舞うことで得られる安心感と充実感、それと同時に感じる後ろめたさ。

 誰に話してもきっと理解されないことは分かっている。気持ち分かるよ、と言われてもそれを信じる気にはなれない。


 だが唯一、当の文哉なら、今の自分を理解してくれると、桐子は無条件で信じていた。信じる、という言葉すらそぐわないほどに、それが当たり前だと思っていた。

 

 そう思う理由は、しかし桐子本人にも分かっていなかった。


◇◆◇


「退院?」


 花を活け替えていたら、リハビリから帰ってきた文哉が教えてくれた。


「ああ。そろそろ退院を踏まえて、自宅で必要なものがあれば揃えるように、って主治医に言われた」

「けがはもう治ったの?」

「ほぼ問題ないよ。まだ完全とは言えないけどな」

「まだひと月経ってないじゃない」

「医者は大抵状態を重くみて伝えるもんだ。診立てより早く回復することもあるだろう」

「自宅に戻って、にいさんは大丈夫なの?」

「まあ、多分な。職場では難儀するかもしれんが」

「無理して出社しなくてもいいじゃない」

「そうもいかないだろう。今もガンガンメールが来るからな。多分結構不便かけてる」


 桐子は何も出来ない自分にため息をつく。自分も千堂家の人間なのに、文哉に頼りきりで肩代わりしてやることも出来ない。


「ごめんね」

「……ん?」

「私に代わりが務まれば、にいさんはもっとゆっくり休養出来るのに」


 力のない桐子の言葉に文哉は驚く。そしてすぐそばにあった桐子の手を握った。


「ずっと言ってるだろ。お前は何もしなくていい。全部俺に任せておけ。もちろん、こんな実家でも使えるときは使え。まあ、使い方を間違えると劇薬になるような実家だがな」


 数週間入院して寝てばかりいたせいか、文哉の腕は以前より筋肉が落ちて細くなったように見える。それもきっと、ケガが完治して普段通りの生活に戻れば元通りになるのだろう。

 

「にいさんの事故の相手って、見つかったの?」


 そう言えば事故当時から進捗を聞いていないことを思い出して文哉に問うてみた。事故の相手に何をしてもらいたいわけではないが、どこの誰か分からないままというのもスッキリしないと思っていた。

 しかし、桐子の言葉に、繋いでいた文哉の手が微かに震えた。


「いや……、警察からは何も連絡が無いな」


 そして静かに桐子から手を離した。桐子の手には、ほんの一瞬の文哉の緊張が、その後もしばらく残り続けた。


◇◆◇


 その日の夕食時に、桐子は文哉の退院について一花に話した。


「ほんと? いつ?」

「まだ確定してないみたいだけど、そんなに先じゃないと思うわよ」

「骨が折れただけだもんね。いつ行ってもパパ元気だったし。……お家帰って大丈夫なのかなぁ。私、一人でパパの介護とか出来るかな」

「介護、って、お前……」


 いきなり飛び離れた心配をしている一花の言葉に、伊織が呆れる。桐子も苦笑いしながら一花の心配を否定した。


「少し不自由はするだろうけど、一花ちゃんが何か特別なことをしなきゃいけないほどじゃないと思うわよ。最初に聞いたより早い退院だから、私も驚いたけどね」

「そっか。トイレとかお風呂とかお世話しなきゃ、って思っちゃった」

「お前、気早すぎ。それはまだ何十年も先の話じゃね?」


 隣の一花の頭をポンポン叩きながら大笑いする伊織の横で、一花が少し無理をしながら笑っていることに、桐子は気づいていた。


◇◆◇


 もうそろそろ寝ようかと思っていた伊織の部屋のドアを、小さな音がノックした。


「誰? ママ?」

「私……一花」


 なんだ、と、伊織は扉を開ける。寝巻の上にもこもこのトレーナーを羽織った一花が立っていた。


「どうした?」

「あのね……、ちょっとだけ、いい?」


 一花は決意を宿したような真剣な目で、伊織を見つめる。何が何だかさっぱりわからないながら、拒否する理由はないので、伊織は彼女を部屋へ招き入れた。

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