第185話
そして、稽古が始まった。
脚本は桐子、演出担当は団長の植田で、二人が同じ大学の演劇部だったというのを剣はこの時初めて知った。
脚本と同時に香盤も発表される。当然だが、まだ初心者に毛が生えた程度の剣に役が付くはずはもない。そもそもが小さな規模の舞台なのだ。
それでも、初めて役者として桐子の作品に関われる、という現実に、剣はそれまでより一層熱心に稽古に励んだ。
ただ、入団以降から公演スタッフとして立ち働いている間に、剣には一定数のファンがついてしまっていた。元から目立つ容姿の上に愛想よく接客していれば、女性ファンがつくのは時間の問題だった。剣目当てに楽屋口で待っている女性ファンもチラホラ出始めている。
「こりゃ、客引きパンダに使えるな」
思わずつぶやく植田を、桐子が窘める。
「最初からそんな扱い可哀想ですよ。しっかり下積みから育ててあげなきゃ」
「でもなぁ、なんかいい役つけてやれないか? セリフは少なくていいからさ。多分舞台映えするぞ、あいつ」
桐子は主演予定のベテラン女優のくっついてパントマイムの練習をしている剣を見遣る。姿勢もよく、堂々としている。確かに人目を引くかもしれない。
「分かりました……。でも、人気先行にはしないように気を付けてくださいね。ここをアイドル事務所にしたくなければ」
「わかってるっつの。あいつ以外は演じてナンボのご面相ばかりだからな」
たまたま後ろを通りすがった役者が、植田の言葉を聞きつけて踵を蹴飛ばした。桐子は当然だ、と、植田を気遣うことはしなかった。
◇◆◇
数日後、稽古終わりに剣は事務所に呼ばれた。稽古場の掃除がまだ終わっていなかったので汗だくのまま走って向かうと、中には植田だけでなく桐子もいたので、慌てて髪や服装の乱れを直した。
「おう、悪いな、片付け中に。今回の『艦上のエチュード』、お前にも出てもらうから」
はじめ、植田の言っていることの意味が分からなかった。返事も出来ずポカンとしている剣に、桐子が歩み寄る。台本を広げて、ある一か所を指さした。
「ここに出てくる若手士官役。セリフは一か所だけだけど、よろしくね」
同時にふわりと甘い香りがして、それが桐子の香水だと気付くと、緊張と喜びで一気に全身を血液が駆け巡る。そのお蔭で停止していた思考が再開した。
「え、えええ?! まじすか、ほんとっすか、俺、舞台立っていいんすか?」
「そんな慌てんなって。後出しで申し訳ないがな、お前の可能性を見たくなった」
先日の『パンダ』呼ばわりを隠して、植田は続ける。
「ずぶの素人が何の予備知識もないまま飛び込んできて、そろそろ半年経つな。お前はいいものを持ってるように見える。だが、実際に板の上に立って観客の目に晒して、どこまで通用するか、その現実にお前がどこまで耐えられるかを見たい」
「現実、って……」
「まだ若いんだ。合わないなら他の道へ進むことも出来る。正直、楽な世界じゃない。お前だってバイトとうちを掛け持ちだろ。そんな生活がいつまで続くか分からない。もしかしたら……ずっとこのままってこともある。ライバルは腐るほどいるからな」
普段は軽口ばかりで周囲を和ませる植田が、別人のように厳しい表情で静かに語る。剣は驚きつつも、植田の真意を汲み取って頷いた。
そして隣にいた桐子が続ける。
「好きなだけじゃやっていけないのよ。役者バカ、ってよく言うけど、傍から見たら本当にバカなんじゃないかってくらい、何もかもを捧げられる人だけが生き残っていける世界なの。田咲くんの才能以前に、その気持ちがあるかを見たい……。どうかしら」
剣は桐子から受け取った台本を握り締め、自分のセリフらしい行をじっと見つめる。
『何もかもを捧げる』
剣は桐子の言葉を繰り返す。
元より自分には何もない。故郷に戻るつもりもなければ、あんな親には二度と会いたくない。捧げるものなんて、この身一つだ。
思い切るように顔を上げると、初めて会った時と同じく、絵画の中の貴婦人のように遠く感じる桐子の姿があった。
(そうだ、俺にはもう一つあった、捧げられるものが)
ぐっと口を引き締め、姿勢を正して二人に向き直る。
「俺……、いつか香坂先生の脚本で主役をやりたいです。だから、絶対……絶対役者続けます。よろしくお願いします!」
最後の一言は、腹の底から突き抜けるような大声で、事務所のガラス窓がビリビリ震えるほどだった。
驚く桐子の隣で、植田が吹き出す。
「すげー決意表明聞いちゃったな。ま、明日からよろしくな」
「はい!」
「あとな、ちょい役でも軍人だからな、坊主にしとけ」
そう言って植田は、剣が下げたままの頭をぐちゃぐちゃとかき回した。
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