第184話

 剣は、松岡たちと会った日から、言われた通りにずっと考え続けていた。

 

(あれはきっと……、もう会うな、ってことなんだろうな)


 松岡がそう忠告してくる理由は分かる。世間一般から言えばその通りだ。自分自身の将来などどうでもいいが、他人に知られれば松岡からの糾弾とは比較にならないほどの非難にさらされるだろう。

 そして、人の目は、年齢が上で既婚者の桐子に集中する。


 分かっているが、それと『別れることに同意する』のは全く次元が異なる。剣にとっては、既に桐子は憧れの脚本家というだけではない、剣の生活の基準の全てが桐子になっている。だからたかが一週間とはいえ手が届く場所からいなくなることが恐怖で、ロンドンまで追いかけた。


 桐子に会わない、会うとしてもそれは仕事の関係者としてだけ。もう名前では呼んでもらえない、呼ぶことも出来ない。体温の低い肌に触れることも抱きしめることも出来ない。


 そこまで想像し、剣は恐怖のあまり叫び出しそうになった。とても受け入れることなどできない、今は。

 叫ぶ代わりに自分の額を床に叩きつける。そして初めて桐子に会った日のことを思い出していた。


◇◆◇


「お願いします! 何でもやります、ちゃんと役に立つまでは給料も要らないです。だから入団させてください!」

「あー、またお前かー」


 剣は初めて観劇した日から、仕事が終わると劇団の稽古場の出入り口に張り込んで、団長である植田が出てくるの待っていた。


「だーんちょ、また出待ちくん来てますよー」

「毎日すごいっすね、イケメンだし、付き合っちゃえば?」

「馬鹿かお前ら?! いいからほっとけ」


 他の団員に揶揄われ、中には剣を励ましてくれる人もいる。毎回植田に素通りされても、諦めることなく通い続けた。

 休みの日は朝から張って、植田が出てくると荷物持ちをしたり買い出しの手伝いをして、公演前には大道具の搬入も手伝ったりした。


 ひと月近く経つ頃、いい加減可哀想だと言い出す団員が増えたこともあり、植田が根負けする形で入団を許可したのだった。


「演劇は未経験っつったな。台本くらいは読めるよな」

「えっと、俺高卒なんで、しかもクソみたいにバカな学校で……」

「成績も学歴も関係ねえよ、この世界はな。日本語が読めりゃ十分だ、ほれ」


 植田が投げてよこしたのは、発声練習用の読本と有名なストレートプレイの使い古しの台本だった。


「明日から稽古に参加しろ。合間見てテストするから、その台本全部覚えてこい」

「全部?!」

「なんだ、嫌ならやめるか」

「や、やります! ありがとうございます!」


 お疲れさん、と手を挙げて帰っていく植田の背に再び頭を下げながら、これであの世界に一歩近づけた、と、それまで感じたことのない喜びに包まれたことを覚えている。


 そしてさらに数カ月、初めて桐子と対面した時は、初観劇の日の感動がそのまま人の形をとって現れたように見えた。


(この人があの世界を創ったんだ)


 自分の価値観も人生の方向もすべて変えた、その日を思い出すと、桐子の存在自体が現実と思えないほど興奮した。

 そして、桐子の美しさも。

 人形のように白い肌と、微かにウェイブがかかった長い髪、茶が強い瞳は今まで見たことが無い色だった。


(外国人……? じゃ、ないよな)


 声も出せずに立ち尽くす剣に、桐子は小首をかしげる。無言で向き合う二人に呆れた植田は、剣の背中をバン! と強めに叩いた。


「おい、お前が騒ぐからわざわざ呼んだんだぞ、自己紹介くらいしろよ」

「えっ? ……あ、は、はい! あの、……た、田咲剣、です。あの……」


 入団後、顎が痛くなるほど滑舌と発声の練習を繰り返したのに、名前を言うのがやっとだった。すぐ目の前にいるはずの桐子が別世界の人のようで、自分の声が届いているのか信じられなかった。

 見かねた植田が補足する。


「前回の『夜灯火』を見て感動したんだと。そんでうちに入団してきたんだよ。次公演の脚本がお前だって言ったら、会わせてくれってうるさくてな」


 しっかりしろよ、と再び肩を叩かれ、剣はやっと人心地がついてもう一度桐子に向きなおる。

 自分と植田を交互に見ながら笑いかけてくる姿に、剣は一目ぼれしたことに後から気がついた。


 

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