第183話

 社内のミーティング、部下への指示、上長への報告などで一日中忙しく過ごし、広瀬の仕事がひと段落した時には、既に夜の九時を回っていた。

 それでもまだ残っている社員もいたので、早く帰るよう声をかけながら帰宅準備を始めた時、反対側から友梨が近づいてきた。


「お疲れ様です、マネージャー」


 今日から入社した社員がこんな時間までいることに、広瀬は驚いた。バックオフィスのリーダーは勤怠管理には厳しい。初日のスタッフなら必ず定時で帰すはずだ。


「どうしたの、こんな時間まで。えっと、川又さん、だったよね」

「帰っていいって言われたんですけど、皆さん忙しそうにしていらっしゃったので帰りづらくて」


 すみません、と謝る友梨に広瀬は慌てた。友梨は悪いことをしたわけではないのだ。


「早く帰ったほうがいいよ。もうこんな時間だし、女の子が夜遅くなるのは危ないよ」

「いえ、私なんて……。あ、でも確かに遅くなっちゃいましたね。どうしよう」


 時計と、真っ暗になった外を見て怯えた様子を見せる友梨に、広瀬は頷く。


「誰かに送らせるよ。えーと……、あ、井出くーん!」


 え? と驚く友梨を他所に、広瀬はフロアを見回す。広瀬たち同様帰宅の準備を始めていた若手を見つけた。手招きして呼び寄せると、会社の最寄り駅まで友梨を送るよう頼んだ。井出は快く引き受ける。


「ごめんね、疲れてるところ。あと、君もこんな時間まで仕事してちゃダメだよ」

「って、海外帰りで疲れてる香坂さんもダメじゃないですか」


 それもそうか、と笑い合って、広瀬は二人に手を振ってオフィスを後にした。

 目論見が外れた友梨は、心の中で舌打ちしつつ、隣に立つ井出を何かに使えないか、と、別の思案を巡らせ始めた。


◇◆◇


 家に帰った友梨は、すぐに兄へ電話をかける。今日の成果を報告するためだ。


『そうか……。まあ、そんな簡単にはいかないだろうな』

「他の社員に探りいれてみたんだけど、プライベートが見えない感じ。でも、社内でも奥さんは有名人ね」

『有名?』

「まあ、美人だっていう人が一番多かったけど、もう一つは奥さんの実家。彼が出世したのはそのお蔭じゃないかって」

『なるほど』


 初日は広瀬本人と面識を得られれば十分だと思っていたが、プラスアルファの収穫があった。

 女性社員には、『香坂マネージャーって素敵ですね』と振ればいくらでも食いついてきた。広瀬が、初対面の人間が褒めても違和感がないレベルの容姿だったことが功を奏した。


「見た目はソフトだし、人当たりもいいんだけど、結構意見を曲げないらしいの。あと正義感? が強いみたいで、上役がセクハラや若手いびりしていたら間に入って庇ったり抗議したりするんだって。だから部下には随分評判がよかったけど、奥さんの実家の件もあるし、上のほうには敵も多いらしいわよ」

『今日だけでよくそこまで聞き出したな』

「だってみんなどんどん喋るんだもん」

『もっと近づけそうか?』

「んー、手ごわそうだけど、でも何とかする。上手く潜り込めたけど、年明けには撮影入っちゃうからそれまでにどうにかしないとね」

『いつも言ってるが、無理強いはするなよ。疑われたらそれが蟻の一穴いっけつになるからな』


 電話越しだが、友梨は兄の言葉に頷いた。自分達兄妹は、広瀬個人には恨みはない。だが彼も『千堂一族』の一人には違いないのだ。


 通話を終えると、友梨は緊張が解けるのと同時に一気に疲労に襲われた。だらしないと思いつつ、明日の朝シャワーを浴びることして、その日はそのまま床についた。

 目を瞑り、夫々一度しか見たことが無い桐子と広瀬を思い浮かべ、それを並べてみた。確かにやっかみを買うのは仕方がないと思ってしまう程理想的な夫婦に見える。


 しかしその内情は理想からほど遠いことを世にさらけ出してやるのだ、と思うと、後ろめたさも疲れも消えていった。



 

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