第182話
「いってきます」
出張帰りのため、資料や土産物をたくさん抱え、広瀬は普段より早めに家を出た。昨日よりも肌寒さが強まっていると思った桐子から、ロンドンでも使っていたウールのコートを着ていくように言われると、黙って頷いて受け容れた。
「なんか、おじちゃん元気ないね。まだ疲れてるならお休みすればいいのに」
一花の言葉に、伊織は頷きつつも否定する。
「俺らじゃないんだから、会社はそんな簡単に休めないんだろ」
「そっかあ……。大人って大変だね」
そして一花は残っていたカフェオレを飲み切ると、広瀬とは正反対に、元気に家を出て行った。
伊織は自分も学校へ行く準備を進めながら、広瀬の部屋から持ち出した封筒を思い出す。
まだ中は見ていない。忘れていただけなのだが、昨日の父の様子を見た後では確認する勇気が出なかった。
とはいえあの会話の後で元へ戻したら、自分が持ち出したこと、嘘をついたことがばれてしまうだろう。
父からの信頼を損ないたくはなかった。
部屋の窓から外を見ると、雲が厚く広がって太陽の気配もない。自分の心と重なって更に気が重くなるようだった。
◇◆◇
広瀬が会社へ着き、上司や同僚、部下に挨拶をしていると、バックオフィスリーダーの女性が声をかけてきた。
「出張帰りで忙しいところごめんなさいね。先月退職した高野さんの代理の方が入ったから、紹介するわね」
広瀬は、ああ、と思い出してリーダーの隣にいる女性に目を転じた。
「川又友梨です。よろしくお願いします」
濃いグレーのスーツに髪を後ろで束ねた女性が自己紹介する。広瀬も返した。
「マネージャーの香坂です。よろしくお願いします」
友梨は顔を上げ、広瀬をじっと見つめてからにこりと微笑んだ。広瀬は小さな「?」を感じたが、リーダーが友梨を連れて他の社員へ引き合わせるため離れて行ったので、その疑問もすぐに忘れた。
月曜日というのはどんな会社でも忙しいものだが、広瀬は報告や現地の土屋から追加で送られてきている連絡の対応などに忙殺され、一息つけたのは昼休憩から大分経過して午後二時近かった。
思わず呆れたように脱力していると、コーヒーが入ったカップが差し出された。
驚いて振り返ると、今日から入社した友梨だった。
「お疲れ様です。休憩も取らずに大変そうだなって思ってました。どうぞ」
「ああ、ありがとう。普段はこんなじゃないんだけどね、出張から戻ったばかりだから」
「香坂マネージャー、すごくお仕事出来るって聞いてます。一緒にお仕事出来て嬉しいです」
「そんなこと無いけど……、ありがとう。高野さんの後任ならきっとお世話になるね。よろしくね」
目で礼をしながらコーヒーに口をつける。集中しすぎていたせいで空腹を感じそこねたが、何も食べないままでは後でガス欠になる。カフェでサンドイッチでも食べてこようと腰を上げると、まだ横に立っていた友梨が話しかけてきた。
「これからお昼ですか? 何か買ってきましょうか?」
まだいたのか、と、驚きながら、その申し出は辞退した。
「いや、川又さんも忙しいでしょう。僕は適当に済ませてくるよ」
でも、と友梨が食い下がってきた時、遠くから広瀬を呼ばわる声がしたので、そちらへ向かって行くと、さすがに諦めたのかそれ以上は追ってこなかった。
エレベーターに乗ると、部の新人たちが広瀬に声をかけてきた。これから昼だ、と言うと、揃って呆れたように労ってくれた。
「そういえば、今日入った川又さん、可愛いっすよね」
「そうなの? あまり気にしてなかったけど」
「あー、香坂マネージャーは、ねー」
うんうん、と頷き合う若者たちの言わんとするところが分からず、広瀬は首を傾げる。
「だって奥さんめっちゃ美人って話じゃないですか。だから目が贅沢なんですよ」
「いいよなぁ、美人でお嬢様な奥さんなんて。めっちゃ羨ましいよ」
「おい……」
桐子への褒め言葉なのかと思ったら、途中で遮る者がいた。すると他の面子もきまり悪そうにそそくさと途中のフロアで降りていった。
一人でボックスの中に残された広瀬は、自分だけが蚊帳の外に置かれているようで、土屋とロンドンで過ごした時間が懐かしくなった。
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