第186話

 小さいながら、入団して間もない剣に役が付いたことへ、負の影響が出ないわけはなかった。

 中でも剣が耐えられなかったのは、『剣と香坂桐子が男女の関係だから』というものだった。

 元々自分の愛人だった男を、知り合いの劇団にねじ込んだのだろう、と。


 剣の入団経緯や桐子の人柄よく知っている団員達は、やっかみだから相手にするな、と励ましてくれた。しかし噂話など、真相を知らない外側にいる人間の想像と興味本位を元にした作り話だ。だから止めることも消すことも出来ない。

 無名の自分がどう言われようが構わないが、すでに脚本家としての立場のある桐子が自分を抜擢してくれたせいで悪く言われていることに、ストレスが溜まる一方だった。




 それは、初日を一週間前に控えた日だった。

 普段より遅い時間になったことで、家庭のある団員を優先して帰宅させる。剣や他の若手が手分けして片付けや掃除を済ませて戸締りを確認していると、事務室から植田と桐子が出てきた。


「お疲れさん。悪いな、他の連中の分まで」

「だんちょー、片付けは全然いいんすけど、腹ペコっすー」


 若手の中でもリーダー格の役者がわざと疲れたような声で訴える。すると他の団員たちも、俺も私もと次々に賛同した。

 おーごーり、おーごーり、と謎の掛け声が盛り上がっていく。植田は観念したように両手を上げた。


「わーかった! 全員奢ってやるからついてこい。ただしいつもの店だからな」


 やったー! という歓声の中で、植田は桐子に、お前はどうする、と声をかけた。


「折角だから私も行こうかな。植田さん、半分持ちますよ」

「お、さすがだな。助かったわ、こいつら底なしだからな」


 わいわいと出口へ向かって歩き出す集団の、一番最後に剣がついて行く。同じく後から歩き出した桐子と肩を並べるような位置になった。


「先生も飲みに行ったりするんですね」

「たまにね。初日前は忙しいって主人も知ってるし」


 さらりと出た家族の存在が、剣の心をチクリと刺す。何をいまさら、と、自分で自分の頬を叩くように気分を入れ替えて外へ出た。


 その時、剣の姿を見て、一部の出待ちファンが歓声を上げる。


「剣くーん! 役付きおめでとう!」

「初日チケット取ったよー」

「次は主役だね!」


 人数は多くないものの、女性特有のよく通る高い声は周囲に響き渡る。剣はぎょっとして慌てるが、その他のメンバーは慣れているように苦笑いするだけだった。

 他の役者の出待ち人の群れを通り過ぎる中、続けざまに違う声が響き渡る。


「あの人? 愛人おばさん」

「よくやるよね、きっと役で釣ったんじゃん」

「私が育ててあげるとか? うわーキモ」


 声のトーンを下げつつも音量は変わらない。むしろ先ほどの歓声よりはっきりと剣の耳に届いた。

 いたたまれず、剣が足早にその場を通り過ぎようとした時、グイと腕を掴まれた。

 驚いて立ちどまると、軽く睨むような目で、でも口元は笑っている桐子がいた。


「こんな時間まで待っててくれた人を、無視しちゃだめよ」


 その言葉に、桐子だけでなく誹謗を投げかけた面々も驚く。イエスもノーも言えずに固まっていると、ほらほら、と、女性たちの側へ押し出された。


「ちゃんとご挨拶して」

「え? えっと、その……お疲れ様です」


 ファン、と言われても、そのような人達にどう接したらいいか分からない剣は、まるで仕事仲間にするような挨拶をした。

 しかし面と向かって剣に言葉をかけられたことが予想外だったらしく、一団は『キャー!』と歓声を上げ、一斉に剣を取り囲んだ。


 群がられて手紙や贈り物を押し付けられ、目を白黒させながら何とか受け取る。求められるままに握手にも応じて、這う這うの体で解放されると、走って団員たちと合流した。


「お疲れ様。こういうのにも徐々に慣れていきなさいね」

「先生……。びっくりしましたよ、急にあんなこと言うから」

「そう? ファンは大事にしないと。彼女たちが君を盛り立ててくれるんだから」

「でも……」


 剣だって、この仕事にファンは必須であることは理解している。しかし目先の人気よりも、桐子を誹謗中傷するような人間だけは許したくなかった。


「あの人達、先生のこと……」

「ん? ……ああ、あれね」


 やはり桐子にも聞こえていたのだろう。剣は汚い言葉を脳内で繰り返しながら、自分のことのように苦い思いを噛みしめる。

 しかし桐子はケロリと言い放った。


「大したことないわ。人に嫌われるのは、慣れてるからね」


 さ、行こう、と手を差し伸べられ、剣は思わずそれを掴んでしまう。

 もう剣の中で、桐子への想いは打ち消すことも後戻りさせることも出来なくなっていた。

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