第180話

 広瀬は一通り部屋の中を探したが、一週間前に出た時と特に変わった様子はなく、抽斗に入っていたはずのものも見当たらない。

 部屋の中に無いとすると、誰かが持ち出した可能性がある。パソコンや腕時計などはいつもの場所に置いてあることを考えれば、空き巣などの可能性はない。金銭的価値などまるでないのだから、赤の他人が持ち出すはずもなかった。

 そもそも空き巣に入られたのならもっと大騒ぎになっているはずだった。


 そうなると、持ち出されたと仮定した場合、それは家族のうちの誰か、と言うことになる。

 その予想に、広瀬は目の前が真っ暗になった。力が抜けて床へへたり込む。


(どっちだ? 桐子か、伊織か。まさか一花ちゃんということはないだろうが、二人の手から彼女へ渡る可能性も……)


 鍵も何もかかっていない場所に入れたまま放置していた迂闊さに、自分で自分を殴りたくなる。比喩ではなく本当に自分の体を傷つけたくなるほどの苛立ちが急激に襲ってきたが、そんな真似をすれば桐子たちに問い詰められるのは確実だった。そして真実を告げる以外に上手い言い訳が出来る自信がなかった。そこまで想定して自制するだけの判断力はかろうじて残っていた広瀬は、ぎゅっと強く目を瞑り、深呼吸を繰り返して、とりあえず風呂に入るくらいの心の安定を取り戻したのだった。


◇◆◇


 夕食は振りの照り焼き、ほうれん草の白和え、アサリの味噌汁に栗ご飯と、広瀬の好物がテーブルに並べられた。子どもたち用なのかポテトサラダとミニハンバーグもある。まだ失くし物のショックから立ち直れていない広瀬も、出汁の匂いに思わず気持ちが綻んだ。


「いただきまーす」


 一花の明るい声で夕餉がはじまる。家族への給仕で動き回っている桐子を他所に、一花は現地でどうだったか、を、あれこれ質問してきた。


「ロンドンって、何が美味しいの?」

「お城があるんだよね? おじちゃん観てきた?」

「日本からロンドンって何時間くらい?」


 やけにはしゃいであれこれ聞いてくる一花に答えるので手一杯で、食事も中々進まない。しかしそのお蔭で、徐々に冷静さを取り戻すことが出来ていた。


「何が旨いかって、さっき土産もんの菓子食ってたじゃん」

「日本だって皇居があるだろ」


 横から呆れ顔で伊織が突っ込むが、それを肯定しながら、広瀬は数日間で見てきた街の様子を話して聞かせた。


「ロンドンってミュージカルも有名なんだよねー。いつか行ってみたいなぁ」


 夢を見るように楽しそうに語る一花を見ながら、そういえば、と、初日に遭遇した青年を思い出した。


「あっちで偶然日本人に会ったんだ。役者だ、って言ってたよ。僕も同僚も名前は知らなかったけどね」


 言いながら、ポケットからスマホを取り出す。データフォルダを開いて、三人で撮った写真を開いてテーブルに置いた。


「一花ちゃんなら知ってるのかな?」


 土産話を盛り上げるつもりだった広瀬は、顔を上げた時、一花が戸惑ったような表情で伊織を見ていることに気づいた。伊織には数日前にこの写真を送っていたことを思い出し、その時一花に見せたのか、と予想した。

 言葉に詰まったような一花を宥めるように、伊織が先に口を開いた。


「親父、その人とどこで会ったの?」

「どこって? 一度ホテルに戻って夕食に行こうと思ったら、困った様子で立ち止まってたんだよ。もしかして日本人の迷子かな、って思って声をかけたんだ」


 怪訝そうだった伊織の顔は、父の返答で少し和らぐ。そっか、と呟くと、一花と頷き合った。


「おじちゃん、私その人知ってる。っていうか、おばちゃんのほうが知ってると思う」

「あら、なんのこと?」


 丁度伊織の茶碗にご飯をよそって戻ってきた桐子が話に入ってきた。一花は広瀬のスマホを手に取って写真を見せる。


「ほら、これ、タッキーだよね?」


 一瞬、一瞬よりももっと短い刹那、桐子の目が見開かれたのを、伊織は見逃さなかった。

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