第179話

 週末には、一週間の海外出張を終えた広瀬が帰ってきた。


「ただいまー」


 タクシーの運転手に手伝ってもらって荷物を下ろし、玄関を開けて帰宅を告げると、言い終わる前に家の中からバタバタと駆けてくる音が数人分聞こえた。


「おかえりなさい」

「おじちゃんおかえりー」

「荷物すげー、手伝うよ」


 おみやげでも期待しているのか、伊織と一花が荷物を抱えて家に入っていく。自分で運べないほど疲れているわけでもないが、ここは二人に甘えることにした。

 改めて横を見ると、手に持っていたコートを受け取る桐子がいた。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 微笑んで寄り添ってくれる、美しい妻。二回目の出迎えの言葉に広瀬はじんわりと帰ってきたことを実感する。そして帰り際に土屋に言われた言葉を思い返していた。


◇◆◇


「じゃあ、一週間ありがとう。また来年から一緒だけど」

「ああ。こっちこそ。ふんづまってた仕事がお前のおかげで大分片付いたよ」

「役に立てたなら良かったよ。……あ、飲み過ぎには注意しろよ。僕達もう若くないんだからさ」

「うるさいな」


 アハハ、と笑い合いながら、搭乗口へ向かおうとした広瀬を土屋が再度呼び止めた。


「やっぱり、一人で来る気はないか、お前」


 広瀬は驚いて立ちどまり、またか、というように苦笑を漏らす。


「そんなに飲み友達が欲しいのか? もちろん、たまになら付き合うよ」

「そうじゃねえんだけどな……」


 土屋は中々伝わらないもどかしさで、自分の頭をガリガリかく。確かに広瀬と二人で飲み歩くのが楽しすぎて毎晩引っ張りまわしたから、誤解されても仕方ないと反省していた。


「嫁さんともう一度話し合ってみろよ。離れることで、見えることって結構多いぞ。特に夫婦はな」


 バツイチの俺じゃ説得力ないか、と付け加える。おどけた様子に広瀬はホッとしてまた笑い合い、最後に固い握手を交わして背を向けた。


◇◆◇


(離れて見えるもの、って、何を言いたいんだ、あいつは)


 結婚してからずっと、自分と桐子は離れて暮らしたことはなかった。自分が出張だったり、桐子が環と旅行へ行ったりすることはあったが、一定以上の期間別々に暮らすことはなかったし、考えたことも無かった。


 自分は。


 そこまで考えた時、広瀬は急に周囲が暗くなったように感じた。


(桐子は……どう考えているんだろう)


 今も子供たちと夕食の準備をしている。その様子は自分が出張へ行く前と少しも変わらない。もうずっと自分が見続けていた、よく知っている妻の姿だった。

 思わず見つめ続けていると、桐子がこちらを見た。


「今日は和食にするわね。向こうでは食べた?」

「え? ……いや、和食は高くてね。パンとフィッシュ&チップスばかりだったよ」

「やっぱりね。すぐ出来るから、先にお風呂入る?」


 いつも通り自分を労わり気遣ってくれる桐子。不自然さはどこにもない。その自然さに、急に違和感を感じて、そんな自分に広瀬は戸惑った。


「……あなた?」

「あ、うん、そうだね、じゃあ風呂行って来ようかな」

「ゆっくりでいいわよ。でもお風呂で寝ないでね」


 疲れを心配してくれているのか、そんな言葉で送り出してくれた桐子を残して着替えを取りに自室へ向かう。階下では土産物を広げて騒ぐ子供たちの賑やかな声が響いていた。


 自分の部屋に入って背中でドアを閉め、長い溜息をつく。どうしてこんなに緊張しているのか、自分でもわからなかった。土屋はただ『単身赴任してこい』と言っただけなのに。


 自分が知っていること以上の何かが桐子にはあるのだろうか。


 唐突に浮かんだ考えが、自分が思いついたというよりも、後ろから誰かに囁かれたような不気味さで広瀬を覆いつくす。済んでのところで呻き声を上げそうになり、慌てて自分の口を塞いだ。


 そして何かに憑かれたように書棚に飛びつき、一つの抽斗を開ける。中に入っているものを全部外へ出して、目当てのものを確認しようとした。


 しかし、そこに広瀬が求めていた物は入っていなかった。

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