第178話
言葉が出ない剣の前に、松岡は一枚の写真を差し出す。先日伊織から送られてきたものをあらかじめプリントアウトしておいたものだ。
「これは……」
「出張中の旦那に近づいて、何をしようとした? あいつの目が届かないのをいいことに、離婚でも迫ろうとしたのか。それはあいつも承知の上なのか?」
「っ、違います! この時は本当に偶然で……」
言葉を重ねるごとに語気が強まるのに押されて、剣は慌てて言い訳を始めた。
「本当は、桐子さんを追っかけて行ったんです。ロンドン、って地名しか聞いてなかったから、会える確証なんかなかったけど……。あてずっぽうで歩き回って、でもどこにもいなくて。そしたら道に迷っちゃって、困ってたら香坂さんが助けてくれたんです……」
必死で言い募る様子に嘘は無さそうだった。桐子を追って行ったことを認めたということは、誤魔化すつもりもないのだろう。そして異国の地で迷子になっている同胞を、通りがかった広瀬が助ける様子も容易に想像出来た。
まずは自分が一番懸念していた事態は避けられそうだと分かり、松岡はソファに身を沈め、氷が半分以上溶けたコーヒーを一気飲みした。
「……会ってみて、どう思った」
「……え?」
「広瀬だ。写真まで撮ったんだ、ある程度仲良くなったんだろ」
剣はもう一度写真に目を落とす。疲れと不安でいっぱいだった自分に声をかけ、食事に連れて行ってくれて、ホテルへ送り届け、困ったことがあれば、と、名刺まで差し出してくれた親切な人。
「いい人、でした……」
「それだけか」
「こんな人が、旦那さんなんだな、って……」
「……諦める決心はついたか?」
松岡の言葉に、剣は頭をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。まさか、ただの一度も考えたことが無かったはずのことを、言い当てられたような恐怖だった。
剣の顔色を見て、松岡はスコッチのロックを二人分注文し、脚を組み替える。
「俺だってな、人様の色恋に口出せるようなエラい人間じゃない。でもな、人の
「だから……香坂さんに会ったのは本当に偶然で」
「追っかけていかなきゃ広瀬に会うこともなかっただろうが」
松岡は一気に声に力を込める。本当に偶然遭遇しただけだとしても、そのせいで伊織は不安を抱え、自分に相談してきた。広瀬も桐子も何も感じなかったとしても、一番守られなければいけない伊織に影響が及んでいる。
「お前、何がしたいんだ」
「何、って……」
「海外まで追っかけて行ったんだろ、どうせ来るなって言われたのを振り切って。そこまでして何がしたい。坂井からも女関係気をつけろって言われるはずだぞ。よりによって親子っつってもいいくらい年の離れた女と不倫してるなんてバレたら、お前みたいなひよっこはあっという間に再起不能だ。もちろんあいつもな」
「俺なんか……、テレビに出たくらいで」
まるで事態の大きさを理解しない剣に、同情心が薄れるのと反対に苛立ちが募っていく。つい声が大きくなりかけるのを必死で抑えた。
「ショボい小劇団の端役と、民放キー局が宣伝費と製作費かけて作るドラマの主演が同じわけがないだろう。ある日突然見知らぬ人間から名前をフルネームで呼ばれるんだよ。お前が知らないところで一挙手一投足見張られるんだ」
松岡は自身の体験も含めて大手メディアの恐ろしさを言って聞かせる。自ら進んで受けた仕事ではないらしいが、それとこれとは関係ない。
「お前らに事の重大さが分かって無いなら、俺から坂井にばらしてもいいんだぞ」
「っ、なんでそんな、勝手なことを!」
「だったら言うことを聞け!」
はずみで高くなった剣の声にかぶせるように、松岡も声が大きくなった。ふと周囲を見回すと、ウェイターとバーテンダー以外は店内にいなかった。
「俺の忠告を聞くなら、何かあった時は俺がお前を守ってやる。お前のためじゃねえぞ、あいつの家族のためだ」
感情的になったばつの悪さもあって、松岡は伝票を持って立ち上がる。代わりに自分の名刺を一枚テーブルに残した。
「時間をやる。よく考えろ」
松岡が退店すると、急に店の気温が下がった気がした。力が抜けたようにソファに背を預ける剣に、ウェイターがチョコレートが入った皿を差し出してくれた。
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