第177話

「相当な惚れ込みようですね。ここまで思い入れられたら、脚本家冥利、とでもいうのでしょうか?」


 剣の熱に気圧された場の空気を和らげるために、坂井が桐子に話を振る。しかし桐子は柔らかく微笑むだけだった。

 その冷めた反応に、剣が不満げに顔を顰めかけたところで、坂井の携帯が鳴る。


「おっとすみません、ちょっと失礼します」


 もしもし、と応答しながら慌ただしく座敷から出ていく。


「私もちょっと」


 坂井に便乗するように、桐子も自分のバッグだけ持って外へ出ていった。


「せんせ……」

「トイレだろ。女が逃げ込む先はいつもそうだ」


 追いかけるように呼び止めかけた剣を、がらりと変わった口調の松岡が制止する。驚いて振り向くと、手酌で自分の盃を満たしていた。


「率直に聞く。あいつとはいつからだ?」


 問うてくる松岡の表情は、口元は笑っているが目の力が先ほどとは別人のようだった。少し前に団長の植田から桐子との関係を追及された時の、後がない感覚を思い出す。


「いつ、って……」


 口ごもりながらこぼれた剣の言葉に、松岡は自分の想像の裏付けを得た、と頷く。何も無いなら『あいつ』が誰なのか、質問の意図が分からないはずだった。その二つを通過して『いつ』を気にしている。

 松岡はあっさりと陥落した剣に、同情を禁じ得なかった。


「この後、少し時間あるか」

「……え?」

「理由をつけて二人を先に帰す。場所を変えて話そう。いいな」


 植田とは段違いの剣幕と威圧感に、剣は了承する以外の道はなかった。


◇◆◇


 再びタクシーに乗って移動する。松岡は車中で何件か電話をしていた。聞こえてくる内容は仕事絡みらしく、法律関係者だということが想像出来た。


 車を降りると、年季の入った建物の地下へ入っていく。看板もなにもなかったが、中へ入るとバーだった。

 何組かいる客の間を縫って、一番奥のソファに腰を下ろした。


「さっきの店で結構飲んでたな。アルコールは止めておくか」


 剣は松岡の提案にコクリと頷く。松岡はアイスコーヒーを二つ注文した。


「で、さっきの続きだ。いつからなんだ」

「……その前に、聞いていいですか。どうして、そんなこと聞くんですか?」


 剣の当然の質問に、頷いて先に答えることにした。


「俺はあいつの昔の上司だ。つっても。入社して半年くらいで結婚して辞めてったがな」

「結婚……」

「俺じゃねえぞ。あいつがな。付き合ってた男、今の亭主だな。その間に子供が出来たっつってな。いいとこのお嬢さんだから上役の口利きで入社してきたが、同期入社の中でも頭一つ抜きんでて優秀だったぞ」


 剣は、松岡の口から語られる自分が知らない桐子の過去に想いを馳せる。まだ若かった頃の桐子は今よりも美しかったのだろうか。普通ならそうだろう。だが自分には今の桐子の方が美しく見えるに違いない、とも考えたりしていた。


「じゃ、こっちの質問にも答えてもらおうか」

「……知り合いに連れていかれて初めて観た芝居の脚本が、と……先生だったんです。暗い舞台で、装置はテーブルと椅子だけ、役者も三人しか出てこなかった。でも主人公が死ぬまでの展開に引き込まれて……」


 幕が下りた時は、まるで自分自身が死んだかのような大きな喪失感に包まれた。その一回で、小規模演劇に一気に引き込まれた。芝居の経験は皆無だったが、植田に付き人まがいの付きまといまでして入団を許可してもらった。


 話しながら剣は自分の短い半生を振り返る。もしあの時桐子の舞台に出会っていなければ、今自分はどこで何をしていたのか、など、考えたくもなかった。


「俺の人生を変えてくれた人です。……惚れちゃ、いけませんか」


 ただの昔の知り合いに自分達の関係に口を出す権利などないはずだ、と険しい空気を纏わせながら松岡と向き合う剣は、巨大な山に飛びかかろうとする小さな狼のようだった。


 松岡は剣呑になってきた場の空気を持て余しながら、完全に周りが見えなくなっている剣が可哀想にも思えてきた。

 自分が何をしようとしているのかが、全く分かっていないのだと。


 アイスコーヒーのグラスに水滴が滴るのを見つめつつ、小さくため息をついた。


「惚れるのが悪いんじゃねえよ。亭主にまで手を出そうとしてるのが駄目なんだよ」


 松岡の言葉に、剣は一気に青ざめた。

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