第176話
善は急げ、とばかりに、松岡は仕事を調整し、あまり人目につかない店に予約を取る。坂井も忙しいスケジュールの中で時間を作ったようで、後の二人へも連絡して小さな宴席が整った。
自分がホストだと知れば桐子は理由をつけて逃げるのでは、と松岡は思っていたが、すんなり出席を了承したらしい。珍しいな、と思っていたら、
「サプライズってことで。香坂先生にも内緒にしてあります」
と、坂井が楽し気に話すのを、松岡は愉快に笑いとばした。
◇◆◇
「じゃあ、行きましょうか」
当日、坂井と桐子と剣は一旦テレビ局で待ち合わせ、小一時間今後について打ち合わせを行った後、タクシーで会場になっている料亭へ向かった。
到着した店を見て、桐子は微かに眉を寄せる。見覚えがあったからだ。嫌な既視感に帰りたくなったが、そうもいかずに坂井たちの後について店に入った。
剣は慣れないネクタイに窮屈そうにしつつも、店の門構えからよく手入れされた中庭をきょろきょろと見回す。
「俺、こんなところ初めて来たよ」
坂井には聞こえない小声でこそりと桐子へ囁く。
「これからはこういう機会も増えるから、慣れておくといいわよ」
「やっぱ正座かな。俺苦手なんだよ、すぐ痺れる」
「男の人は胡坐でも大丈夫よ」
まるで伊織を宥めているようなやり取りに少しだけ気持ちが和らぐ。そして仲居に案内された座敷に入ると、案の定、松岡が座っていた。
「先生、お待たせしました」
にこやかに挨拶を交わす坂井は、その顔のまま桐子を振り返る。桐子も笑顔を返しながら、内心
(やられた)
と舌打ちをしたい気分だった。それは、その桐子の考えまで松岡に読まれているだろうという予想への苦々しさも含まれていた。
松岡の隣に坂井、その向かいに桐子、桐子の隣が剣、という並びで座る。主賓は剣、という待遇で上座に座るよう言われたが、剣はその意味もよく分かっていないようだった。
「田咲さん、お酒はお好きですか? なんでも言ってくださいね」
絵に描いたようなエグゼクティブの松岡に最初は尻込みしたが、挨拶をして話し始めると思いの外話しやすい磊落なキャラクターに、剣はあっという間に緊張がほどけた。
「ありがとうございます。こういうところは初めてで……、何を飲んだらいいのか」
「何でもいいんですよ。じゃあ、最初ですからビールにしましょうか。香坂さんもそれでいいですか?」
松岡の取ってつけたような声かけに、桐子の口の端が引きつる。その小さな意思表示に、松岡は必死に笑いをこらえた。
食事と一緒に坂井がメインとなって会話が進む。内容はもちろん来年放映予定のドラマについてだった。
「ハムレットは主人公の狂気が一番の見どころですが、名作なだけに演劇ファンは原作のままだと食傷のはずです。でも今回の作品はその先の展開に希望があるので、単純に悲劇ではないところがいいんですよ」
坂井は桐子の脚本を手放しで絶賛する。褒められるのは嬉しいが、同席しているのが自分をよく知る二人だからか、尻の座りが悪くなる思いだった。
「田咲さんは如何ですか。香坂さんとは以前からお仕事をご一緒されているそうですが」
松岡の問いかけに、剣は箸を置いて顔を引き締める。
「俺は……、先生の脚本なら、どんな端役でもいいと思ってます。でもずっと、主役をやりたいと思ってました。今回はテレビだけれど、やっと夢が叶ったので……何があっても成功させたいです」
まるで愛の告白のような熱のこもった語り口に、坂井や松岡は圧倒される。剣の役者としての演技力もあるのだろうが、ここは舞台ではない。きっと心からの願いなのだろうと、率直に感動する。
しかし当の桐子は素知らぬ顔でグラスを傾ける。その様子は鈍感というよりも人としての温かみをまるで感じさせない。
松岡はうっかり剣に同情しそうになったくらいだった。
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