第175話

 坂井にスマホを返しながら松岡は思考を巡らす。


「演劇には疎いですが、男の私の目から見ても魅力的な人ですね」

「お、先生もそう思われますか? 本人が舞台にこだわっているようで今まで大きな露出がなかったらしいんです。でも若手ながら実力もありますしね。言い方が悪いですが掘り出し物だと思ってますよ」


 坂井は本当に剣を買っているらしく、自分のことのようにほくほくと話す。松岡はこれを利用しない手は無いと思った。


「じゃあ、ドラマが放映されたら、人気者になって大変でしょうね」

「そう思います。本人にはそうした自覚は無いようですが」

「これだけいい男だし若いのだから、恋人くらいいるでしょう。人気が出てから見つかったら大変でしょうね」


 メインの肉をナイフで切り分けながら世間話を装って話を続ける。期待通り、坂井は厳しい顔をした。


「それは私も心配しているんです。脚本の香坂先生とは旧知の仲のようですから、くれぐれも注意してほしいことを伝えているんですが、本人が気を付けてくれないことにはなんとも……」


(よりによって桐子にに釘刺したって意味ないだろう)


 二人の関係を知る由もない坂井には酷な苦情を胸の内でぼやく。

 釘を刺されながらも関係を断たないでいるのだとしたら、思っていたより面倒な事態になっているかもしれない、とも思えた。


「有名になる前に一度お会いしてみたいですね。どうですか、香坂さんも含めて一席設けさせてくださいよ」

「え? いいんですか? それは嬉しいですね。彼も支援してくれる人が増えることは有難いことだと思いますから」


 期待通り、坂井は二つ返事で了承してくれた。坂井からの誘いなら桐子もそう簡単に無下にはしないだろう。そして現在進行形で続いている男に、自分との関係を話すはずもないから、ターゲットである剣を引っ張り出すことも出来るはずだ。


 その後は世間話に話題が移り、食後のコーヒーまでゆっくり味わってから、宴席の日程が詰まり次第連絡する、ということで坂井と別れた。


(さて、会ってみて、どうするかな……)


 自分が首を突っ込むことで、当然桐子は腹を立てるだろう。しかし今は桐子よりも伊織を優先させねばならない。場合によっては広瀬も含めて守らなければ、あの一家は崩壊する。


(自分の家庭でもないのに、どうしてこんな骨折りなことを……)


 伊織の要求にこたえたところで一銭にもならない。しかし松岡にとって、この件の報酬は金ではなかった。


◇◆◇


「で、なんで今日は遅刻ギリギリだったわけ」


 予定していた撮り直しが終わり、役者たちは次の仕事場へ移動していった。環が言い置いていた罰を受けずに済んだことを皆から揶揄からかわれねぎらわれ、やっとの思いで解放された剣は、今度は最初と同じ厳しい表情のままの環に捕まった。


「えっと……、ちょっと」

「ちょっと? それで済むと思ってんの? いい? 今は一人でフラフラ出来てるけど、この先そんな自由は無くなるわよ。今よりも仕事が増えれば一人でスケジュール管理できなくなって、マネージャーをつけざるを得なくなる。それまでの間、CM現場では私、テレビドラマ関連では桐子があんたのお目付け役なの。その私達に『ちょっと』で濁せるはずないでしょ」


 剣は言い訳も逃げも出来ない窮地に困り果てる。植田の大学の後輩で桐子の親友だと聞いているが、桐子とは正反対の性格のようで、飾りも誤魔化しもない言葉がポンポン飛んでくる。その上二十近く年上なのだから、敵うはずはなかった。


「ちょっと……外国に」

「……はあ? 今日が撮影だって伝えておいたわよね。そんな予定が入ってるならどうしてあの時言わなかったの?」

「……すいません」

「問題なく帰ってこれたから良かったものの、もし現地でなんかあったり、ケガや病気になったらどうするつもりだったの。あんたのことだから保険も入らずに行って来たんじゃないの?」

「……すいません」


 小さく項垂れる剣に、環の苛立ちは止まらない。遅刻しかけたことよりも、もし何かあったら、という不安がイライラを強めていく。


「大目に見るのは今回だけよ。次はこんなんじゃ済まさないからね。……って、外国って、どこ行ってたのよ。ハワイ?」

「いえ、ロンドン、です」


 反抗する気力も消えていた剣は正直に答えた。しかしその地名を聞いて、環の中で何かが符合した。

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