第173話
普段、伊織はかなり真面目に授業を受けるほうだ。試験前などに限らず、教科書に目を通して授業をしっかり聞けば、学校の試験レベルなら特別な勉強は必要ないくらいだった。
その伊織が先日一方的に早退を宣言して学校を飛び出した時は、クラスメイトの間で結構騒ぎになっていた。
そして今も。
普段なら最初から最後まで板書と問題を解くことに集中している伊織が、教師の声など上の空でずっとペンを回しながら考え事をしている。どう見ても、授業中の教科について考えている顔ではなかった。
今の伊織の思考を占めているのは、無論もう伯父のことではない。
父から送られてきた写真に写っていた男についてだった。
一花と、何より母とつながりがあるらしい。どういった関係なのだろうか。ここへきて、母の仕事にほとんど興味を持たずにいたことを後悔する。一度でも母の手掛けた舞台を観に行っていれば、何かのヒントになったはずなのに。
一花なら恐らく自分が知らないことも知っているだろう。しかし今の彼女にこれ以上の負担はかけられない。無論、母も、何も知らないだろう父も論外だった。
そうなると、伊織が頼れる相手は環だけだ。環なら、何か知っているだろうか。しかし知っていたとして、息子の自分に事実を教えてくれるのか、という疑念もあった。下手な動きをして、この先もっと情報が必要になったときの協力者を失うような真似はしたくなかった。
(そうなると……)
黒板に板書をするため、教師がこちらに背を向けていることを視界の端で確認し、伊織は財布から松岡からもらった名刺を抜き出し、今一度確認した。
どこか胡散臭げな風情は隠せないものの、松岡ならきっと力になってくれる、と確信した。
◇◆◇
十二時の昼休憩開始のチャイムがオフィスに鳴り響く。しかし松岡にそんなものは関係ない。仕事があれば休みは無くなるし、暇になれば平日でも休む、それが疲れを溜めずに働き続けるコツだと思っていた。
丁度依頼主との電話打ち合わせが終わったところで、充電中だったスマートフォンが鳴った。片目で通知を見ると、伊織だったので驚いた。
休憩も兼ねてそのまま手に取る。短いメッセージと写真が送られてきた。
『この右側の人、知ってますか』
開いた写真の中央には、伊織の父である広瀬が写っている。指定した右側の人物は、やけに若い、広瀬よりもむしろ伊織の知り合いと言ったほうが自然なくらいの青年だった。
『いや、知らないな。誰だ?』
送信マークをタップすると、すぐに返信が来た。
『俺も知りません。松岡さんなら知ってるかなって思ったんですが』
素直な感想に松岡は苦笑する。確かに無駄に年齢も経験も重ねているが、かといって何でもかんでも知っているわけでは、当然ない。しかし伊織は自分に聞けば何でも教えてくれるとでも思っているのかもしれない。
『調べろってことか? でも手がかりが無いと調べようがないぞ』
『母の関係者みたいです。母が脚本を書いている劇団の俳優だと、一花が言っていました』
伊織の返信で、松岡の脳内スイッチが切り替わる。桐子の知り合いとなれば、伊織に頼まれずともどんな輩か気になる。
『分かった。調べておいてやる。何か分かったら連絡するから、お前は余計な探りを両親に入れたりするなよ』
伊織は聡い。こんな釘刺しなどしなくても大丈夫だろうとは思っていたが、伊織を守るためにも言わずにはいられなかった。
数秒後、OKの文字と一緒にぴょこぴょこ動くクマのスタンプが送られてきた。自分のスマホ画面ではついぞ見たことのない可愛らしいキャラクターに、思わず声を立てて笑ってしまった。
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