第172話
信じられないものを見るような文哉の目に、桐子はたじろぐ。
『お前は平気なのか』
という言葉の意味が、桐子には分からなかった。むしろ思い入れのある屋敷を売り払おうとしている兄の気持ちのほうが分からなかった。
「千堂のことは……兄さんに任せるけど、私は……、無理に手放さなくてもいいんじゃないかな、って……」
「……分かった」
それだけ言うと、文哉は目を閉じて黙ってしまった。桐子は腑に落ちないまま、やるべきことを終えたら病院を後にした。
◇◆◇
病室から桐子の気配が消えたことを確認すると、文哉はゆっくり目を開ける。
ずっと抱え続けていた疑問がやっと解けた。そして、今までよりもより深い孤独感に襲われた。
桐子は分かっていると思っていた。分かった上で、桐子なりの理由があって生んだのだろう、と。
しかし、あの頃の記憶は失われたままだった、ということだ。
ずっと、桐子と自分の二人の罪だと思って来た。しかし桐子に記憶も自覚もないならば、これは文哉が一人で負うべき罪だった。
真っ暗な何もない穴に、一人で取り残されたような気がした。
◇◆◇
各務が病院を出ると、コートの裾を風にあおられながら近づいてくる人影があった。
「兄ちゃん、やっぱりここに来てた」
「友梨……」
長い髪をなびかせて微笑む様子に、すれ違う男が魅入っている。女優と言う職業は、名が売れていなくても他人の注目を集めるものかもしれない。
それでも、今さっき見た桐子のほうが、妹よりも美しく思えてしまう自分に、各務―裕之は嫌悪感を感じて顔をゆがめた。
「私もお見舞い行きたかったな。千堂文哉って格好いいんでしょ?」
「さあな。……お前は何もしなくていいって言ってるだろ。人目につく仕事してるんだ、余計な真似するな」
「この仕事は兄ちゃんの手伝いするために使えるかと思って続けてるだけよ。いつ辞めてもいいんだから」
友梨はなぜか上機嫌で次兄の腕に自分の腕を絡ませる。
「妹、か……」
「ん? なんか言った?」
いや、と、首を振りながら、千堂兄妹を思い浮かべる。確かに血筋だけでなく見目も人より抜きんでてる二人だとは思う。
(それでも、関係性は常軌を逸してる。あの二人がしたことを考えれば、兄が責められる必要などなかったはずだ……)
友梨にしがみつかれているのと反対の腕の拳に力がこもる。仇を討ちたい二人を目の前に何もせず笑ってやり過ごした自分の忍耐力を褒めてやりたい。もしこれが妹だったら、桐子の頬を平手打ちくらいしていたかもしれない。
「友梨」
ん? と見上げてくる妹に、裕之は一つ頼みごとをした。
「出来るか」
「やる。出来るか、じゃない。やってみせる」
そう言って強い光を宿した瞳は、裕之から見ても美しかった。
◇◆◇
ロンドンからとんぼ返りした剣は、ほとんど眠れないまま空港から撮影現場へ直行した。
ギリギリで集合時間に遅れることはなかったものの、明らかにどこかから駆け付けた風情の疲れた顔をした剣に、関係者はもとより環の表情が険しかった。
他から苦言が出る前に、環の怒号が響き渡った。
「……す、すみません、本当に……。今後は気をつけます」
「確かに君がメインの企画ではあるけどね、だからって好き勝手していいわけじゃないのよ」
「で、でも、遅刻はしてませんし……」
「ほんとーにギリギリでね。それに仕事にはコンディションを整えて臨む、っていうのは、誰にも教えてもらってないのかしら?」
体の前で腕を組み、背の高い剣を地べたに正座させて上から怒鳴りつける環を、よく知っている者は苦笑いで、そうでない者は宥めるために間に入った。
「まあまあ、田咲くんも反省しているようですし」
「春田さん、前から思ってましたけど、こいつに甘いですよね」
「こいつ、って……。いや、俺はドラマでも彼と一緒だしさ。初めてのチョンボなんだから、その辺で大目に見てやってよ」
自分より目上のベテラン俳優に頼まれれば環も飲まざるを得ない。わざとのように大袈裟なため息をついて剣を威嚇すると、仕方がない、というようにその場から解放した。
「NGなんか出してみろ、腕立て百回腹筋千回だからな」
環の脅しにぎょっとした剣は、お蔭で一気に気持ちを立て直すことが出来たのだった。
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