第171話

 桐子が元へ戻るまでには、ひと月余を要した。

 文哉の依頼で、整形外科医のほかに産婦人科医、カウンセラーにも往診してもらった。転落による怪我が順調に回復するのとは反対に、桐子の心は十代のまま変化がなく、次第に文哉の焦りも高まっていった。


 ある朝、文哉はいつも通りに桐子の様子を見に部屋へ向かう。まだ念のため腕を吊った状態で生活していたが、日常の用回りは自分で出来るくらいまで回復していた頃だった。


「桐子、起きてるか。入るぞ」


 静かに襖を開けると、部屋の中には既に身支度を整え、化粧まで施した桐子がベッドに腰掛けていた。


「……どうした、早起きだな」

「兄さん、私……、どうしてここにいるの?」


 自分への呼びかけ方で、桐子の心が元へ戻ったことに気がついた。驚いて声も出ない文哉を、少し心細げに、しかし文哉の答えを求めて待っている。

 文哉は暫し迷い、そして事実説明を始めた。


「……仕事の帰りに、階段から落ちて怪我をしたんだ。俺だけじゃ看病が行き届かないかもしれないから、一時的にこっちへ移ってきたんだよ」

「怪我、って……、いつ?」

「もう、ひと月以上前だよ」


 桐子は驚いたように目を見開き絶句している。当然だろう、目が覚めたら環境も日付も一変しているのだ。


「仕事は……」

「俺の方から会社に連絡した。退職手続きは済んでる。お前の私物は送ってもらったよ」

「……広瀬くん、は?」

「お前が不安定になってたからな、落ち着くまでは、って、お見舞いも断っていた」


 桐子は息を飲むと、自分の荷物の中から携帯電話を見つけ、慌てて操作する。広瀬に連絡を取ろうとしているのは一目でわかった。

 文哉は邪魔をしないよう、静かに部屋から出て行った。


◇◆◇


「もしもし……、広瀬くん?」

『桐子? 桐子か? 大丈夫なのか?』

「うん、良かった……。ごめんね、ずっと連絡できなかったみたいで」

『いいんだ、大きなけがをしたんだろう? もう大丈夫なの?』

「まだちょっと痛いけど、大丈夫」

『そうか……。お見舞いに行きたいんだけど、お義兄さんに怒られるかな』

「どうして? あ、でも、今ね、自宅じゃないの。ちょっと遠いし」

『そうなの? じゃあ、週末にでも行くよ。何か欲しいものある?』


 ひと月も音信不通だったことで、もしかしたら広瀬は自分を見限ったのでは、という懸念は、あっという間に消え去った。広瀬はやはり広瀬で、どこまでも優しかった。


 通話を終え、ホッと一息つくと、安心したのか腹が鳴った。そういえば朝食がまだだった、と、腹部に手を当てたとき、桐子の心臓がドクン、と大きく打った。


(階段から落ちた、って……、赤ちゃん、は?)


 思い至った途端、恐怖のあまり立ち上がることが出来なくなった。必死に声を絞り出し文哉を呼ぶ。廊下にいたのだろうか、すぐに入ってきた文哉は、桐子の顔色を見て、厳しいながらも納得したような表情をした。


◇◆◇


 三鷹へ移ってからずっと桐子を見ていた産婦人科医を呼んだ。これまでの経緯を全て文哉から聞いていた医師は、流産について慎重に、丁寧に話す。

 医師の隣には文哉が同じく硬い表情で座っていた。もし桐子が医師に何かを言うときは、自分が矢面に立とうと思ってのことだった。


 全て説明を聞き終わった桐子は、蝋人形のように顔色が無く微動だにしなかった。やはりどれだけ気を付けたところで、ショックが軽くなるわけもなく、隠し通せるものでもない。中学生の時の心の傷にばかり配慮して、大人の桐子への配慮が欠けていたことを、文哉は深く反省していた。


「……もう一度、検査してもらえませんか?」

「検査、とは」

「赤ちゃん、本当にいないんですか? 私にはそう思えない……。生きている気がするんです」

「ですが……」


 医師は困ったように文哉を振り返る。ここよりも設備が整った総合病院で処置したのだから疑いようがない。再度検査したところで結果は同じだろう。

 文哉は小さく息を吐くと、桐子ではなく医師へ向かって口を開いた。


「お手数ですが、お願いできますか。それで、妹も納得できると思いますので」


 分かりました、と頷いた医師と共に立ち上がり、三人は病院へ向かった。


 検査した結果は、だった。

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