第170話
『それは……、どうしてですか』
しばしの沈黙の後、広瀬が何かを堪えるように問うてきた。それは当然の疑問だと思った。
「今の桐子はとてもセンシティブになっていてね。……その、君に負担をかけたくないんだ」
『僕は、桐子の状態が負担になったりしません』
「分かってる。もちろん、そんな長い期間にはならないと思う。安定してきたら、一番に広瀬くんに連絡する。それは約束する」
『……どうしても、今は会えないんですか?』
「申し訳ない……。ここは、飲み込んでもらいたい」
電話越しなのに、文哉は受話器を持ったまま頭を下げる。広瀬の背景で人の声がする。仕事を抜けてきてくれていることが伝わってきた。
『分かりました……。お大事に、とだけ、伝えてください』
絞り出すようにそう言うと、文哉が返事をする前に電話が切れた。
◇◆◇
その後は医師や看護師の手配、桐子の勤務先への連絡、自分の仕事の手配などを次々とこなした。
桐子の勤務先は、見舞いの言葉もそこそこに、既に退職日も決まっていたせいもあって今後は出社不要ということと、桐子の私物は郵送することなどを事務的に伝えてきた。
法律事務所だと聞いていたが、ケガをした社員に対するとは思えない冷たさに、桐子は結婚が無くても辞めて正解だったのでは、と思った。
ひと段落したところで桐子の部屋へ向かう。ボタンを押して背もたれの角度が変わるベッドで起き上がり、窓を開けて庭を見ていた。庭では、世話人の妻が桐子と会話をしながら花を摘んでいた。
楽し気に花を選ぶ顔は明るくて、やはりここへ連れてきて良かったと思う。
「体調はどうだ、肩は痛くないか?」
「うん、お薬が効いてるんだね。ちょっとお腹が痛いけど、大丈夫だよ」
文哉は小さく緊張を走らせるが、それを顔に出さないよう苦心した。
「学校には連絡したから、気にせず休みなさい。久しぶりに好きなことをたくさんやればいい。欲しいものがあれば買ってくるから」
「どうしたの、お兄ちゃん。すごく優しいよ?」
驚きながらも首を傾げて笑う仕草は、今の桐子そのもので、文哉は意識を集中させるのが大変だった。
体が冷えることを心配し、窓を閉める。
「夕食まで少し寝るといいよ。ご飯はここで食べるか」
「ううん、みんなと一緒に食堂で食べたい」
そうか、と頷き、おやすみ、と伝えて、文哉達は桐子の部屋から出て行った。
◇◆◇
早速訪問してくれたヘルパーに手伝ってもらって入浴を済ませると、桐子はまたすぐに眠りについた。
桐子自身は安定しているものの、元へ戻る気配は少しもない。ある日突然戻るのか、少しずつ扉が開くように変化するのかもわからない。いずれにしても、事実に向き合った時の桐子をどうケアするか、が、文哉にとっての重大事だった。
しばらく自分も出社を控えるため、文哉が自室で社内への指示をまとめていた時だった。
「いやあああああ!!」
突如、真夜中の静寂を引き裂くような悲鳴が響き渡った。すぐに桐子のものだと分かった文哉は、戸を突き破りそうな勢いで桐子の元へ駆けつけた。
襖を開くと、寝たままの状態で桐子が泣き叫んでいた。
「いや、いや、あああ!」
「桐子、桐子! どうした、桐子!」
悪夢でも見ているのか、と、文哉は必死で桐子を揺さぶるが、桐子は空の一点を凝視して固まっている。何度も名を呼び続けると、叫び声が少しずつ小さくなっていった。
「桐子……、俺だ、大丈夫か?」
「お、にい、ちゃん……」
まだ震えつつも、やっと文哉の姿が目に入ったらしい。その途端、両目から涙が溢れだした。
「お兄ちゃん、私……、どうしよう、怖い、怖いよ……」
大丈夫だ、と宥めようとするが、桐子は何を見ているのか、怖いしか言わない。それどころか怪我をしている方の腕を無理矢理動かそうとする。文哉は慌てて抱き留めた。
「馬鹿、ケガがひどくなるだろう。大丈夫だから落ち着け」
「いや、いやよお兄ちゃん……。怖いよ、やだ、一人にしないで……」
再び大丈夫だ、と言いかけたが、桐子の目が常軌を逸しているのに気がつくと、文哉の中で何かがはじけた。
「大丈夫だ……。お前を一人になんてしない。絶対だ。約束するよ……」
その夜、文哉が自室に戻ることはなかった。
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