第169話
文哉は一晩寝ずに考えて、桐子の療養についての方針を固めた。
翌日、精神科医との面談結果を伝えるために呼ばれた場で、それを医師へ相談する。
「妹は、在宅で治療を受けさせたいと思います。幸い都下の静かな場所に家がありますので。医師と看護師はこちらで手配します。週に一回はこちらへ通院させていただく、と言うことでお願いできないでしょうか」
「それは……費用が掛かりますよ」
「大丈夫です」
金の問題なら何の負担もない。今は桐子の秘密を守ること、広瀬との関係に余計な亀裂を入れないこと、何より桐子の心を守り、未来を守ることが最優先だった。
「分かりました……。では、地域医療の担当病院に紹介状を書きますので、ご連絡と手配をお願いします。……お兄さんのご心配はよく分かりますが、ただ妹さんはもう成人されている。元へ戻ったら、ご本人の意思を最優先されるよう、お願いします」
「……もちろんです」
文哉は了承と感謝を込めて、深く頭を下げて診察室を出た。そのまま桐子の病室へ向かう。
中へ入ると、文哉の顔を見た桐子がパッと表情を明るくした。
「お兄ちゃん」
「どうだ、怪我は」
「うん、まだちょっと痛いの。でも骨折してるんだから、仕方ないよね」
心なしか表情が明るい。怪我をして痛いはずなのに。
その理由は文哉はよく分かっている。いや、文哉にしか分からない。
大人しく布団をかぶって寝ている桐子の額にそっと手を置きながら、ゆっくり話し出した。
「先生に許可をもらった。ここだと落ち着かないだろうから、退院しよう」
途端に桐子の顔が曇る。みるみるうちに恐怖に青ざめていくことに気づき、慌ててつけ加えた。
「三鷹の屋敷だ。あの家で、暫くは二人で暮らそう。往診してくれるお医者さんも手配する。どうだ?」
「……おじいちゃん家に?」
黙って頷く兄を見て、今度は急速に顔色が良くなっていく。やはり中学生の頃に戻ってしまっているのは確実だった。
入院してホッとしていたのは両親に会わずに済むから。家に帰ろうと言われて慄いたのも、両親の叱責や侮蔑が怖かったから。そして帰る先が亡き祖父母の家で、兄と二人と分かって安堵したのだ。
「うん、それなら帰る。でもお兄ちゃん、学校は? 遠くない?」
「……大丈夫だよ、お前がそんな心配するな」
額に当てていた手をそのまま桐子の頬へ移動する。心が中学生に戻ったことで、表情まで幼くなった。文哉の気遣いを、素直に喜ぶ様子は昔の桐子そのものだった。
「いつ? 今日?」
「そうだな。さっき先生に許可もらったところだから、いつ頃退院していいか聞いてくるよ。あと……この部屋は面会を断ってもらうよ。お前もそのほうが、いいだろう?」
文哉は広瀬に心の中で謝罪しつつ、今の桐子にとって広瀬は劇薬になりかねないことを懸念して先手を打った。しかし桐子は、文哉が暗に示している面会者が両親を指していると解釈し、即座に頷いた。
退院前の治療と、鎮痛剤や炎症止めを処方してもらうと、文哉は桐子を車いすに乗せて、そのまま三鷹へ向かった。
到着すると、世話人夫婦が出迎えてくれた。先に電話で事情を伝えておいたため、二人は桐子を中学生として扱った。
在宅医療の手続きを進めながら、一番気が重い仕事にも手を付ける。
桐子の居室から一番遠い部屋に入り、広瀬に電話をかけた。
『もしもし、香坂です』
「お仕事中すみません。千堂です」
『お義兄さん、ですよね。あの、桐子は……』
時間的に休憩中ではないだろうに、すぐに応答した広瀬に、その人柄と桐子への思いやりが伝わってくる。文哉は自分の心苦しさに蓋をしながら、口を開いた。
「しばらくは、面会を控えてもらいたい」
電話の向こうで息を飲む気配がした。
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