第168話
文哉から桐子の事故について聞いた広瀬は、タクシーに飛び乗って駆け付けた。案内された病室では、桐子はまだ眠ったままだった。
「こんな怪我……、どこで」
「帰宅途中の地下鉄の階段を転げ落ちたらしい。幸い周囲には人がたくさんいたから、すぐに救急車を呼んでくれたそうだよ」
「……可哀想に」
絞り出すような広瀬の声には、慈しみと悲しみと、強い怒りが込められているのが伝わってきた。
「ずっと眠ってるんですか?」
「痛み止めを注射してもらって、その影響かもって。退職準備で忙しくしてたからね、疲れもあるんだろう」
「……どこか、頭でも打ってる、とか……」
「先生はそれは言ってなかった。大丈夫だよ、薬が切れたらきっと目を覚ますよ」
あえて明るい口調で、医師から聞いている話をそのまま伝える。広瀬は自分を納得させるように頷いた。
「明日も仕事だろう? 桐子のことはこっちに任せて、君は帰って大丈夫だよ。起きたらすぐ連絡するから」
「……よろしくお願いします」
深々と頭を下げる姿は、既に桐子の保護権が広瀬に移っていることを示しているようで、文哉は無意識に目を逸らした。
◇◆◇
広瀬が帰り、文哉も桐子の入院の準備をするために一度帰宅しようと思った時、桐子がゆっくりと目を開けた。それに気づいた文哉は、慌てて枕元へ駆け寄る。
「桐子? ……桐子、大丈夫か?」
驚かせないよう、でも心配だったあまり、何度も名を呼ぶ。桐子は数回瞬きをして、文哉のいる方へ顔を傾けた。
「お、兄ちゃん……?」
「ああ、ここにいるよ、大丈夫か、痛いところないか? 今、看護師さん呼ぶからな」
「私……」
「駅の階段で転んで怪我したんだ。ここは病院だから、もう大丈夫だぞ」
「怪我……」
「もしかしたら薬が切れて痛くなるかもしれないな。でも、ちゃんと治るからな」
安心させようと状況説明しつつ、一つだけついた嘘に胸が痛む。しかしそれも桐子を守るためだ、と、自分に言い聞かせた。
「そっか……。私、転んじゃったの?」
桐子のたどたどしさに、文哉は少しずつ違和感を大きくする。最初は寝ぼけているのかと思ったが、何かが違う気がした。
「そうだな、転んだんだろうな」
「また……お母さんに怒られちゃうね」
そう言うと、口元をゆがめ、目から涙がこぼした。しかし文哉は桐子の異変をハッキリと悟り、驚愕で涙をぬぐってやることも出来なかった。
◇◆◇
「退行、ですか……」
目を覚ました桐子の怪我の具合を確認した後、医師は、文哉の申告に従って問診を行った。男性医師が病室に入ってきた瞬間、反射的に身をすくめた桐子を見て、文哉は、やはり、と確信を深めた。
「それは、昔に戻ってしまった、ということですか? 記憶喪失みたいな?」
「記憶がどこまで失われているかは分かりませんが、妹さんの意識としては、まだご両親が生きていた頃に戻ってしまっているようですね。自分の名前は千堂桐子、両親と兄の四人家族で、中学校に通っている、と言っていました」
「中学……」
文哉は思わず片手で顔を覆う。桐子の中学時代と言えば、あの忌まわしい事件が起きた頃だ。まさかあの前後に戻ってしまっているということだろうか。
「ご本人には内密に、とおっしゃっていた件ですが、無意識に事態を悟っていて、そのショックを回避するための退行かもしれません」
「元に戻るんでしょうか? いつ頃?」
「こればかりは……。明日、精神科の医師も含めて再度面談して、今後の治療についてご相談しましょう」
念のため抗不安薬を投与します、と言われたところまでは覚えているが、文哉の思考は完全に混乱していた。
桐子の心が、あの時と同じ時期に戻っている。
だとしたら、桐子が今会話が出来る相手は恐らく自分しかいない。
広瀬のことは、覚えているだろうか。会わせてみれば思い出して、本当の桐子に戻るだろうか。しかし逆効果の可能性もある。特にあの時期の桐子であれば、相手が誰であろうと男性であれば恐怖心を抱いていた。
「なんてことだ……」
文哉は一人、病院の廊下で途方に暮れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます