第167話

 屋敷はそのままでいい、と言う桐子を信じられない思いで見つめながら、文哉はのことを思い出していた。


◇◆◇


 妊娠が分かって少しの間は特段の体調不良も無かった桐子は、退職準備と業務の引継ぎに加え、休日には広瀬と新居の相談をし、自宅では引っ越しの準備も進めていた。


 会社では松岡が配慮してくれたものの、同輩たちの目は相変わらず厳しかった。『もう辞めるなら』最後とばかりに、桐子自身の職域からは外れている雑用を次々と押し付けてくる。見かねた先輩が手伝おうとすれば逆効果なことを知っている桐子は、手助けを辞退し一人で全てこなしていた。


 ひと月ほどそうした生活を続けていたある日、帰宅途中でいきなり膝から力が抜けた。

 気がつけば地下鉄の階段を、昇降する人達のすき間を縫うように下まで転げ落ちて行った。


◇◆◇


 連絡を受けた文哉は、取るものもとりあえず車で駆け付けた。病院へ到着すると、桐子の病室へ向かうより先に、治療に当たった医師から話があると呼ばれた。


「ご家族の方ですね。失礼ですがご主人でしょうか」

「いえ、兄です」


 そう名乗ると、医師は頷きながら暫し黙り込んでしまった。


「あの、妹は……」

「ご両親、お母さんは……」

「亡くなってます。近親者は私だけです」

「そうですか……。妹さんですが、階段から落下されて、肩の打撲と右上腕の骨折と……」


 そして、もう一つの損傷について文哉に告げた。


◇◆◇


 看護師に病室へ案内してもらうと、桐子は上半身に包帯が巻かれた姿でベッドで眠っていた。痛み止めが効いているからだろう、とのことだった。

 桐子を起こさないよう静かに椅子を引いて腰を下ろす。元から色白な桐子の顔は青ざめていて、どれほどの恐怖だっただろうと想像すると自分のこと以上に辛かった。

 そして、約十年前のあの事件も思い出していた。


(どうしていつも、桐子ばかり……)


 世間的には、資産持ちの旧家の娘で、見目も良く一流大学を卒業した桐子は、天から二物も三物も与えられた恵まれた存在に見えるのかもしれない。

 しかし実際は、両親から冷遇され、可愛がってくれた祖父母とはもう会えず、長い間友人と呼べる同級生もいなかった。

 それだけではない、桐子に何の落ち度もないのに、下劣な犯罪の餌食になった上に、両親は警察の捜査を差し止めるよう裏から手を回すことまでしたのだ。

 

 今回の怪我がなぜ起きたのかは分からない。ただの事故かもしれない。しかしこれまでの桐子の不遇を思うにつれ、どうしても文哉はそこに人為的な作意を感じてしまって、怒りが込み上げるのを抑えることが出来なかった。


 その時、サイドテーブルに置かれた桐子のバッグから、携帯電話のバイブ音が聞こえた。中から出すと、発信者は広瀬で、すぐに出ようとしたところで手が止まった。


 そのまま呼び出しが終わるのを待つと、文哉は再び先ほどの医師の許へ向かった。




「……ご本人には、内緒に?」

 

 文哉の申し出に、医師は訝しむのを隠さなかった。文哉もそれは当然だろうと思った。


「はい……。いえ、ずっと、と言うわけではありません。それは無理な話ですし、いずれ本人も気がつくでしょう。ただ、今は……ショックに耐えられるかどうか」

「ふむ……。あまりショックにお強い方ではない、と」

「……妹は、あまり幸せな生い立ちではありません。婚約者がこのことを知って婚約に影響するのでは、と、要らぬストレスを抱えそうで」

「……わかりました。看護師達には私の方から説明しておきましょう。ただ、体調が回復されたら必ず説明します。お兄さんからお伝えしてもいいですが、言いづらければ私の方から説明しますので、そこはご了承ください」


 文哉は医師の言葉に頷いて、診察室を後にした。

 そして外へ出て、自分の携帯電話から広瀬に連絡を入れ、桐子の事故の件と入院先を伝えた。

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