第166話
「申し訳ありません、各務さん。折角お越しいただいたのですが、妹と少し込み入った話がありますので……」
桐子も驚くような表情を見せたのはほんの一瞬で、再びいつもの礼儀正しい微笑みで、各務に席を外して欲しい旨を伝える。
込み入った話、に心当たりがない桐子は首を傾げるが、各務は頷いてコートを手に取る。
「突然お邪魔して申し訳ありませんでした。お大事になさってください。では」
そして二人に頭を下げ、あっさりと部屋から出て行った。
二人切りになり、桐子は何の話か聞こうとしたが、文哉は口の前に人差し指を立て、静かにするよう伝えながら桐子を手招きする。
「……まだ外にいるかもしれない。もう少ししたら外に出て様子を見てくれ」
兄の厳しい表情と言葉に桐子は唖然とする。しかし声に出さず頷きながら、まずは持ってきた荷物を必要な場所へ仕舞ったりして時間を潰した。
花瓶の花の水を入れ替えるため、扉を開けて廊下へ出る。ゆっくり歩きながら廊下や途中の部屋に目を遣り、各務は既にいないことを確認して病室へ戻った。
「もう、さっきの人いないみたいよ」
「……そうか、ありがとう」
桐子は文哉のベッドサイドに腰を下ろす。
「兄さん、あの人、どういう人なの? 兄さんにお世話になってる、って言ってたけど……」
「今、三鷹の屋敷の売却話を進めているんだ」
予想外の話と、そして内容に桐子は絶句する。すぐに声が出てこなかった。
「え……どうして……」
「あの屋敷は……、無くなったほうがいいだろう」
「どうして? 確かに古くなってるけど、まだ住めないわけじゃないし、それに……無くなったほうがいいって、どういうこと?」
文哉が何を言い出したのか分からず、話せば話すほど桐子の思考は混乱した。
子どもの頃、学校が長期休暇になると兄と二人で訪れた祖父母の家。悲しい事件の後は行くことは無くなったが、それでも楽しかった思い出とあの屋敷は桐子にとってはセットだった。だから、広瀬と結婚するときの両家の顔合わせはわざわざあの家で執り行った。
子どもの時の想い出だけでなく、自分達夫婦にとっての想い出の場所でもある。
それを何故文哉が『無くなったほうがいい』と考えるのかがさっぱり分からなかった。
「売却って、じゃあ、あの人に売るつもりなの?」
「まだ候補の一人ってところだな。あともう一人は、ほら、この前ここで会った弁護士の松岡さんだ」
その名前に桐子は驚愕と同時に怒りが体を駆け抜けるのを感じた。そんな話が進んでいるとは思いもよらなかった。松岡と二人で会ったのはつい二日前だ。その時は自分ばかり話していたせいか、松岡は一言もこの件については触れなかった。
無論、文哉も。
「でも……、どうして今更? 何かお金が必要とか?」
「そんなんじゃないよ。実はずっと前から考えていたことなんだ。本当なら売る必要もない、取り壊してくれれば、後は駐車場でも公園にでもしてしまおうと思ってた。でもそれが出来ない」
桐子は頷く。三鷹の祖父母の屋敷は、代々千堂家の前当主が隠居か避暑に使っていた。何度か増改築も重ねているが、戦災を逃れたかなり古い建物でもあるため、今となっては建物をどこかへ保存しようという動きがあることも知っていた。
「無理に取り壊す必要なんて……ないじゃない。売る必要も無いわ。ずっとあのままにしておけないの?」
桐子は心の中で祖母と一緒に入った大きな風呂や、祖父たちと餅つきをした庭を思い出しながら呟くように文哉に抗議する。だが、文哉の答えは予想外にも驚きをあらわにしていた。
「お前は……平気なのか?」
桐子はハッとして顔を上げると、文哉こそが桐子を信じられないものを見るように凝視していた。
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