第164話

「無理、って……」

「正直言ってな、久しぶりに会った時びっくりしたんだ。お前の顔が暗くてな」


 土屋の表情は冗談を言っているとは思えない。一杯だけ、と言っていたビールにも口をつけた様子はなかった。広瀬もグラスを置く。


「でも、体調も悪くないし、仕事は確かに忙しいけど、休みも取ってるし」

「……それだけか?」


 土屋の口ぶりは、既に何か予想がついているかのようだった。そしてそれが何を指しているのかを、広瀬も薄々分かっていた。

 なぜなら、広瀬の結婚が決まった時、ただ一人止めようとしたのが土屋だったからだ。


「俺、言ったよな、お前が結婚するって言った時……。覚えてるか」


 広瀬は声を出さず静かに頷く。きっと祝ってくれるだろうと思っていた相手から太く釘を刺されたようで、その後しばらく土屋を避けてしまったほどだった。


『愛していても、身分の差は埋められないぞ』


 まさかこの時代に聞くとは思わなかった言葉だった。皇室ならまだしも、桐子の家が一般家庭ではないと知っても、桐子自身はどこにでもいる普通の女性だったし、兄の文哉も気安い人柄だった。既に両親は他界して、親戚づきあいも、結婚式が不要なほどいないと聞いて驚きはしたものの後から考えれば安心材料の一つでもあった。


「もしかして、妻の実家の間で僕が苦労してるんじゃないか、って思ってるのか?」


 土屋は返事をしない。広瀬はその点ははっきりと否定したくて、笑いながら首を振る。


「お義兄さんはとてもいい方だよ。伊織のことも可愛がってくれるし、僕にも気を使ってくれる。姪っ子も明るくて可愛いしね。土屋が心配するようなことは何もないよ」

「……本当、だな」

「本当だって。むしろ、土屋は何をそんなに心配しているんだ?」


 入れ替わってこちらを気遣うような目をする広瀬に、土屋はため息をついて口を開いた。


「格式の高い家柄っていうのは、一般庶民には想定できないものを抱えてるもんなんだよ。じゃなきゃ、千年も続くもんか。こんなに時代が変わって何度も大戦を経験して、華族制だって今はもうない。それでも莫大な財産を少人数で保有し続けて、何もしないのに政財界に影響力を残してるなんて、俺からすりゃどんなにいい人達でも化け物にしか見えない」

「それは……お前は二人を直接知らないからだよ。そうだ、今度うちに遊びに来ればいいよ。そうしたら」

「そういうことじゃないんだって」


 土屋は広瀬に伝わらないもどかしさと同時に、きっと言葉だけでは理解してもらえないだろう諦めも感じながら首をふった。


「本当はな、今回奥さんに会えたら同じことを言おうと思ってた。いや、奥さんが悪いんじゃないのは分かってるよ。ただ……、奥さんが俺と同じ気持ちでいてくれてることを確認したかったんだ」


 土屋は広瀬に説明しているようで、しかし長年自分が感じ続けてきた不安と向き合いながら言葉を続けた。


「今お前が……なんの不安も不審も感じずに幸せにしていてくれるならいいんだ。でもな、さっきも言ったけど、無理だけはするなよ。お前は本当に、いい奴なんだからな」


 最後のほうは、いつもの土屋らしい温かい微笑みに戻っていて、広瀬は安堵する。土屋が上げたグラスに合わせて、遅い乾杯をした。


「よく分からないけど、でも、ありがとう」

「単身赴任のほうが息抜きも出来ていいんじゃないかと思ってたけどな。でも、一家で移住してくるっていうなら、仲良くやってるってことなんだよな?」


 念押しする土屋に、広瀬は静かに頷く。

 その後は一日分のエネルギーを補給するように、たっぷりと飲んで食べた。


◇◆◇


 ホテルへ戻り、広瀬は土屋の言葉を思い返す。

 どれも全部抽象的で、確信も証拠もない。広瀬が否定したように、桐子も文哉も世間で言われるような一族のイメージとは程遠い。

 それでも、土屋の、聞きようによっては失礼とも言える懸念を、強く否定することは出来なかった。


『仲良くやってるんだよな』


 そうだ、自分達家族は上手くいっている、と思ったそばから、渡英後一度も連絡を取り合っていなかったことを思い出した。

 情けない気持ちに蓋をしながら、ノートパソコンを開いてメールをチェックすると、仕事関連のメールに紛れて伊織からのメールが届いていることに驚いた。送信日時を見るとほぼ丸一日前だったので、慌てて開く。


『一花がハンバーグ作ったよ。親父にも写真送れっていうから送っとくね。あとママが心配してた』


 内容は他愛もない日常のひとこまだった。普段ならわざわざ言う必要もないような連絡が、家族間の物理的な距離を感じさせる。もう高校生にもなった息子からのメールがこんなに愛おしいものだと思わなかった。

 写真は食べかけの煮込みハンバーグが写っていた。桐子が作った、と言われても信じてしまいそうな、旨そうな料理だった。


『美味しそうだね。帰ったら僕も食べたいって一花ちゃんに伝えておいて。ママには、大丈夫だって伝えてくれるかな』


 自分で言えばいいのに、と、口をへの字にする伊織の顔が浮かぶようだった。

 こちらの様子を伝えようと、先日三人でパブで撮った写真を添付して送信し終わると、そのままシャワーを浴びるために立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る