第163話

 剣を送り届け、自分もホテルへ戻ると、広瀬は一気に緊張が解けて疲労に覆いつくされた。シャワーを浴びる余力もなく、そのままベッドに横になる。

 目が覚めたのは、充電しそびれて枕元へ放置していたスマホが何度も呼び出し音を繰り返していたことに気づいた時だった。

 寝ぼけながら応答すると、焦ったような土屋の声が飛び出した。


『おい、香坂! 大丈夫か? 無事なのか?』


 何をそんなに慌てているのか分からず、起きたてのくぐもった声で返事をする。


「おはよう、お前こそどうしたんだ?」

『どうした、って……、お前、まさか今起きたのか?』


 言われてやっと広瀬は時計を見る。数秒間、数字が示している意味が分からなかった。理解できた瞬間、ベッドから跳ね起きる。


「悪い! え? あれ? 目覚ましかけてなかったのかな? と、とにかくすぐ行く! 本当にごめん!」

『なんだ、ほんとにただの寝坊か……。いや、それならいいんだ。真面目なお前が無断でサボるとかありえないからな、何かあったんじゃないかって心配になってな。止まってるホテルの名前も聞いてなかったし、電話も何回目か分からないくらいだぞ』

「ごめん……、うわー、やっちゃった……。昨日、そんなに飲んだつもりなかったのにな」

『いいよいいよ。到着早々引っ張りまわした俺の責任だ。折角だから昼間でゆっくりしろ。昼飯から合流しようぜ』


 土屋の明るく野太い声と優しい提案で、やっと広瀬は平静さを取り戻す。再度詫びと、礼を伝えて電話を切った。

 自分の話し声が消えたホテルの部屋は、無駄に広い分静寂が重かった。熱いシャワーで目を覚まし、ルームサービスを取り、今日の予定を再確認する。

 広瀬の思考のどこにも、日本に置いてきた家族は入り込んでこなかった。


◇◆◇


 約束通り昼食で土屋と合流し、そのまま午後の業務を開始する。来年度以降本格始動するための準備を進めていたら、あっという間に夜になっていた。


「ここまでにしておくか。早かったなー、さすがに今日は」

「……本当にごめん」

「あはは、いじめてるんじゃないよ、お前とだと仕事を進めやすくてストレス無いんだよ、だから早く感じるんだって」

「そう言ってくれると嬉しいよ」

「じゃ、飯食って帰るか。今日は酒はやめておこうか」

「僕はそうするけど、お前はいいんじゃないか?」

「人が飲んでると飲みたくなるだろ、俺もたまには休肝日だ」


 ほら行くぞ、と肩を叩かれ手立ち上がる。そういえば最近は、同僚や部下たちと仕事の後に飲みに行く機会もほとんどなくなっていることに気がついた。

 一昔前と比べると、職場関係の酒の席が歓迎されなくなっていることは気づいている。広瀬自身も肩の張る席は苦手だから、その傾向は歓迎だった。

 それでも、気の置ける相手と日頃の憂さを晴らす心地よさを、ここで味わえるとは思わなかった。


(確かに、桐子がいたら気兼ねなく、というわけにはいかなかっただろうな)


 そう思い浮かんだところで、出発から一度も連絡をしていないこと、桐子からも何も来ていないことに気がついて、束の間思考が停止する。

 

「ん? どうした? いくぞ」


 それも、土屋の声かけで元へ戻る。忘れ物をした時のような心許なさのまま、夜の街を歩き始めた。




 その日土屋に案内されたのは、路地裏にある日本料理屋だった。海外で人気の寿司や天麩羅ではなく、地方の郷土料理が中心で、疲労気味の広瀬にはありがたかった。

 食事が半ばまで進んだ時、我慢できなくなったように土屋がビールを注文する様を見て、広瀬は弾けるように笑った。


「だから無理しなくていいって言ったじゃないか」

「ま、一杯だけな……。お前も、無理はするなよ」

「大丈夫だって。今朝は自分でもびっくりしたけどね。時計を見た時固まったよ」

「そうじゃなくて、さ……」


 ほら、と、小さなグラスの半分くらいまで瓶ビールを注いで広瀬に渡してくる。


「無理してるんじゃないか、お前」

「……なんのことだよ」


 広瀬は得意の微笑を仮面のように顔に貼り付けたまま、空とぼけた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る