第161話

 その日、伊織は急遽部活が休みになったため、普段より早めに家に帰ってきた。


「ただいまー。……って、あれ、ママいないんだ」


 母の出迎えを無意識に期待していただけに、沈黙が淋しい。誰もいないのにあえて独り言を呟きながら、キッチンで食べられるものを漁る。

 案の定、冷蔵庫に伊織たち用と思われるフルーツサンドが入っていた。自分の分を片手に、階段を昇って自室へ向かった。


 一カ月と少しの間、文哉宅へ預けられていたことで、少しは親離れ、というより母離れ出来たかと自分でも思っていたのに、家へ戻れば元通りだった。やはりいるべき人がいないのは寂しい。


(それでも、伯父さんが入院してる一花には、こんなこと言えないよな……)


 この半年ほどで、一花と伊織の関係は急速に密度が高くなっている。それまでは親戚の一人としか見ていなかった一花を、今ではすっかり家族の一員のように思っていた。だからこそ、一花の前で位は面目を保ちたかった。


 伊織は制服から着替えて、今日の分の勉強に取り掛かる。普段はいない時間帯の自宅周辺は、鳥の鳴き声が響き渡るくらい静かだった。

 参考書を読み進める中で、どうしても分からないものが出てきた。


「あれ……、これって教科書に載ってないよな」


 パラパラと何冊かめくってみたが目当ての情報が見当たらない。迷った伊織は久しぶりに父の書斎へ足を踏み入れた。

 父が異国の地へ旅立ってまだ数日なのに、やけに部屋の中が淋し気に感じる。父もまた、伊織にとっては居て当たり前で、いないと突然その不在が大きく感じる相手だった。


「えーと……、あれ、親父なら政経関係の本持ってると思ったんだけどなぁ」


 目に付く場所にあるのは、以前なら見掛けなかった洋書と、父が好きな作家の新刊ばかりだった。物珍しさもあり、自分の背丈より高い書棚を隅から隅まで見て回る。それでも期待していたものは見当たらない。


 勉強に退屈していたこともあり、諦め悪く抽斗まで開けて探し回る。父なら息子が自分の部屋を漁っても怒らないだろう、万が一怒っても謝れば許してくれる、という絶対の自信があった。


 探し回るうちに、見たことのない、白い布の表紙のアルバムが目に入った。正確には昔は白かったのだろうものが、時間の経過でうっすらと黄ばみかけていた。


 興味本位で開くと、そこには、盛装した父と真っ白なウエディングドレス姿の母が並んで写っていた。 

 母の美しさに、伊織は息を飲んだ。


 雑誌でよく見るような派手なデザインではなかったが、体の線に沿ったタイトなシルエットと、布地と同色の糸で精緻な刺繍が施されたドレスは、母の肌の白さと姿勢の良さを際立たせている。隣に立つ父も、白いタキシードが腹が立つほど似合っていたが、伊織の目は若い時分の母にくぎ付けだった。


「結婚式の写真なのに、なんでこんな奥に仕舞いこんでるんだ?」


 息子に見られるのが気恥ずかしいのだろうか。同性として父の気持ちが分からなくもなかったが、今まで見せてもらえなかったことが悔しくなるような一枚だった。


「そうだ、写真に撮って、後で一花に見せてやろうかな」


 ふと思いついたアイデアを実行しようと立ち上がった時、アルバムが入っていた更に下に、厚めの封筒が置かれていることに気がついた。

 それを見て、父の部屋に来た当初の目的を思い出す。

 こんな奥深くに仕舞いこまれている封筒に自分が求めている情報が隠れているとは思いづらかったが、見てみないことには分からない。

 ついで、と、それも引っ張り出した時、玄関の鍵が開く音がした。


「伊織ー? 帰ってるの?」


 それは母の声で、嬉しさと同時にアルバムを見たことを咎められるのでは、と恐れた。


「ママおかえりー」


 極力いつも通りを装って階下へ向かって返事をしながら、アルバムと一緒に封筒も持ち出し、そのまま自分の部屋に隠して階段を下りていった。


「おかえり。今日は早かったのね」

「うん、部活が休みになったからね。ママは、伯父さんとこ?」

「……ええ。そうだ、夕ご飯、何がいい?」


 今度は桐子が普段通りを装う番だった。気取られないようエプロンを着けながら話題を変える。伊織があれこれ食べたいメニューを並べる様子を見つめて、やっと安堵の息をついた。

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